牧師の一週一言

2020.7

2020.7.26  

 昔ある殿様が「老人は働かず、無駄だから山に捨てるように」というおふれを出した。一人の男は自分の父親を捨てるにしのびず、そっとかくまっておいた。ある時、殿様が灰で作った縄が欲しいと言い出し、皆が我も我もと灰で縄をなおうとするがどうしても作れない。そこで男が父親に相談すると、わらで固く固く縄をない、それを燃やすといいと教えてくれた。なるほどとやってみると、灰の縄が出来たので、殿様に献上した。殿様は喜んで、「誰の考案か?」と問う。実はかくまっていた老人の知恵であることを白状すると、殿様は、「老人は知恵があるので、以後大切にするように」と新たなおふれを出したそうである。
 私は、求道の頃、父親に反抗していたが、十戒で「あなたの父と母を敬え」との教えを学び、父親に対しての思いが変わり敬うことができるようになったことを思い出すのである。

2020.7.19  

 以前私たちの教会にも、伝道礼拝の講師としてお招きしました森 優(まさる)先生から近況を知らせるお便りをいただきました。

 2月のある朝のこと、ご夫妻が近くのスーパーで買い物をし、リュックサックにキャベツ、じゃが芋、長芋などを入れて帰り道を歩いていました。近くの崖の下に一匹の猫がいて、猫好きな先生は近づいて声をかけようとしてかがみ込みましたが、背中の重みで後ろにひっくり返ってしまいました。体を横に回転させて膝をつき、両方の手で地面を押さえて立ち上がろうとしましたが、砂利道の石が手に刺さって起き上がることができず、痛くて力も入らず、また横にひっくり返ってしまいました。どうにも立ち上がれず、仕方なく先に行く奥さんを呼び止め、片手を引いてもらってようやく立ち上がれたそうです。

 その時、頭に浮かんだのは「立つにも座るにもハレルヤで」という言葉だったそうです。実は、その週の説教題が「立つにも座るにもハレルヤで」で、すっかり忘れていたのを、思わぬ出来事ではっと気づかされたということでした。
 私たちも、突然アクシデントに見舞われたり、嫌なことが起こった時、「立つにも座るにもハレルヤ」と主にすべてを任せる毎日を送りたいものです。

2020.7.12  

 私は以前にNHKの「朝のインタビュー」をそれとなく見ていてハッとさせられた事がありました。寄席の即席スケッチなどで知られている味のある落語家の二代目桂小南師匠の対談でした。

 終わり頃に「何か今までに大切にしてきた言葉はありますか」という問いかけに、桂師匠は、「これは先代の師匠から受け継いだ言葉ですが...」と前置きをして色紙に「はなし家はしゃべらない」と書きました。私はそれを見て思わず「なるほど」と思いました。

 「アナウンサーはしゃべらない」「牧師はしゃべらない」その仕事からは全く矛盾する言葉です。桂小南の言い分は「自分の話術や能力に頼るのではなく、落語の話そのもの、事柄そのものが伝えられるように心がけよ」と自戒の念も込めている、ということでした。
 説教者も、自分を押し出して語ったり、他のものからの借り物ではなく、主イエス・キリストの恵みを語り伝えていく事が、神さまから召されていることだと、この対談から学ぶことができました。

2020.7.5  

 『ただ一つの明かり』
 中国にこんな話がある。

「年老いた王がため息をついて言った。『私はもう70歳になってしもうた。まだこれからも学門をし、書物も読みたいと思うが、こうも遅くなってはどうにもならぬ。』すると、お付きの学者が『遅くなっても日が暮れたら明かりをつければ良いのでは』と返答する。王は『何を申すか、からかわないでくれ。わしが遅くなったと言ったのは、一日のことではなく一生のことだ。』すると学者は、『どうして王様をからかいましょうぞ。人間の一生は、少年時代に学問をするのは朝のようなもので、太陽は次第に光を増していきます。壮年時代はつまり昼どき、太陽は明るく輝きます。老年となると太陽はすでに沈み、あかりの力を借りなければなりませんが、真っ暗の中を手探りするよりはずっとましではありませんか。』」
 私たちの人生は学びの連続である。しかしそれは、どのように生きるかという学びである。暗黒の中、ただ一つの明かりであるイエス・キリストを頼りに学び続けたいと思う。