牧師の一週一言

2020.11

2020.11.29 

 私は時々、体の一部が凝るように、心のこりを起こすようなことがある。
自分は詩が作れなくとも河野さんの詩を読むと自分の心が柔らかくなり素直になり、和やかになります。 
 病まなければ ささげ得ない祈りがある。
 病まなければ 信じ得ない奇跡がある。
 病まなければ 聴こえないみことばがある。
 病まなければ 近づき得ない聖所がある。
 病まなければ 仰げないみ顔がある。
 病まなければ 私は人間でさえあり得ない。
この詩を読むと、幼な子のようになって神に祈りたくなります。
『はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』

(マルコによる福音書 10:15)

2020.11.22 

 教会のカレンダーによれば、きょうの聖日は「聖霊降臨最終主日」であり、暦によれば、今年最終の主日である。
 天国に召された渡辺和子さんの著書に『心に愛がなければ』がある。

その中に「今年を振り返って、辛いこと、悲しかったこと、嬉しかったことを思い起こす年の暮れに」という心に残る言葉があった。最近、会社や学校に提出する履歴書について、従来のものを簡素化して、渡辺さんによれば「苦歴」を提出したらと言っている。これは、私の人生の一番苦しかった時という「苦歴」の履歴書があっても良いと言うのだ。
味わいのある言葉である。必ずおとずれる長い夜。一日には長い夜がある。その夜を人生にたとえると「苦歴」とも言える。
主イエスには、「苦歴」と言える十字架への道があった。
主は、私たちの人生の「苦歴」と共に歩んで下さるのである。

2020.11.15 

 ある人が「神は人間に二つの目をお与えになった」と言われた。
人間は目を二つ持っていることによって遠近の判断がつき、景色を見ても奥行きがわかるのかもしれない。この事実はなかなか象徴的で、物事の「奥行き」を知るためには、二つの異なる視点を持つことが必要だと言えそうである。

 私が伝道者になって3年目のことであった。あるお寺の娘さんが、友人に誘われて教会に来られた。私は、この人は寺の娘さんだから真剣にキリスト教を求めていないだろうと決め込んでいたし、その人の求道生活を見ていると、信仰を持つなどとは思われなかった。しかし、1年半の求道生活を通して受洗の恵みに与ったのである。
私は、一つの目でしか彼女を見ていなかったのである。あれから何十年経っても、やはり神から与えられた二つの目で見ることはせず、焦点の合わないことが多い。
 一人の視覚障がい者が主イエスに「何をして欲しいのか」と問われて「主よ、見えることです。」と答えているが、もう一度この願いを主に求めたいと思う。

そのとき、二つの目にプラス、「神の目」という「第3の目」も開かれるにちがいない。

2020.11.8 

 かつて、上智大学の文学部にドイツ人のアルフォンス・デーケン教授がおられ、過日、お亡くなりになられたというニュースが流れていました。教授は在任中、自宅から大学までを私鉄で通勤され、学生たちからは、あだ名で「私鉄のデーケン」と呼ばれていました。またそれはデーケン先生が「死の哲学」を講じていたことから、それをもじったものでもありました。
 私もかつて信徒の医師に薦められて、デーケン先生の講演を津市の教育文化会館(元の津教会の前にありました)に聴きに行きましたが、密度の濃い話であったことを覚えています。

 先生は講演で、若い女性の看護師の死について紹介されました。彼女はがんになってからもホスピスで同じ患者のために働き、残された半年の終末期を意欲的に生きて、死の直前には「自分は長い旅に出かけ主のみもとに帰る」のだと、別れの言葉をテープに残していました。彼女は「死後の場所」を知っていたのです。

 

ヨハネによる福音書 14:1〜4にはこうあります。

『心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。』

 

 主が「わたしは、あなたがたのために場所を用意しに行く」という時、「死が命にはじき出されて、死に近づくことができない」というのです。天を握った生き方が約束されているのは何と素晴らしいことでしょう。