牧師の一週一言

2021.1

2021.1.31 本日の説教要旨「主の権威といやし」 

 カトリックの司祭であったヘンリ・ナウエンは、現代キリスト教会において霊性に関する著述家として40冊を超える作品を残しました。オランダで生まれ、ハーバード大学に学び、カナダに移住しましたが、最期は1996年オランダで亡くなりました。

ある時、新聞記者より 「あなたの本は神を信じている人には人気があるが、神を信じていない人の慰めになる本を書いて欲しい」と言われました。 そして彼が無神論の人に向けて書いたのが『愛されている者の生活』という本です。その中で「人間の唯一の慰めは主イエス」 だと明言しています。

 主イエスは3年間の公生涯において多忙な日々を送られました。 主の洗礼の後、悪魔の誘惑を受けられましたが、ガリラヤで伝道を始められたキリストの評判は周りの地方一帯に広まり、諸会堂で教え、皆からの尊敬を集められました。 霊に満たされたキリストのもとに慰めを必要とする人々が押し寄せて来るようになり、主は会堂にいる悪霊に取り憑かれた一人の男に出会われました。

彼に取り憑いた悪霊は「かまわないでくれ、われわれを滅ぼしに来たのか」と叫んでいました。「かまうな」という言葉は「あなたはあなたで、私は私だ」という意味で、「私のことは放っておいてくれ」という意味です。 「神が関わるな」ということです。 また、「われわれを滅ぼしに来たのか」の「われわれ」とは、この一人の人の中に多数の人が住んで、多くの声にまどわされて生きているということでした。

それに対してキリストは、「黙れ、この人から出て行け」とお叱りになりました。 人々は、この権威ある言葉に驚きました。
 

 私たちも苦難にある時、また、病におかされている時など不安や恐れがあるでしょう。しかし、主がこの男に対して権威ある言葉で 「この人から出て行け」と言われたように権威をもって私たちのもとにともなってくださいますから、神さまの権威に信頼して今の状況を乗り切っていきたいと思います。
 

お祈りいたします。

「私たちを造り、 共にいたもう主なる神さま。主の権威ある言葉によって、私たちを赦し、いやし、すべての災いからお守りくださることを感謝いたします。どうぞ、このコロナ禍にあってお守りくださるようお願いいたします。 また、感染されて苦しみの中にある人たちをいやし、悲しみの中にある人たちをお慰めください。主イエス ・ キリストのみ名によってお祈りいたします。 アーメン」

2021.1.24 本日の説教要旨(橋本昭夫牧師)「主は罪人の列に」 

 おそまきながら、明けましておめでとうございます。このような挨拶を交わし合いながら、私たちは、その意味を考えます。そこには、あたらしい年に、いまはわからないけれど、きっとめでたいことがある、きっとそうであるに違いない、という期待と願いがこめ
られていて、そのように挨拶するのだと思います。

 教会の暦によりますと、私たちは顕現節の中にいます。主イエスが、どのようなお方であるかを現わしてくださったことをみ言葉にお聞きします。先ほどから言っていますようにこの年頭、不安や恐れの思いが、黒い雲のように私たちの心に垂れ込めています。どこか否めない思いというべきでしょうか。しかし私たちの心をまず占めていなければならないのは、私たちにとって、どのようなお方なのか、ということです。

 きょうの説教の主題として、私は「主は罪びとの列に」といのを選ばせていただきました。きょうのみ言葉は、そのことを短く印象的に語っていると示されたからです。

 主イエスのご洗礼については、今日のマルコ福音書よりマタイ福音書がより詳しく記しています。それによりますと、ヨハネは荒野で烈火のような、激しい口調で神のさばきの近いことを叫び、人々に今こそ悔い改めよ、神をないがしろにして歩んできた道をあらため、それにふさわしい実を結べと、悔い改めを激しく迫っていました。このヨハネについての噂が、エルサレム、またユダヤの全土に広がっていきました。民の間に長く預言者の現れないときが続いていました。人々は、預言者の出現を待ち望んでいたのです。人々は罪のゆるしを受けようと、ぞくぞく集まってきました。

 聖書では「飢饉」に二つあると言っています。ひとつはパンの飢饉です。もう一つは「みことば」の飢饉(アモス書 8:11〜12)です。パンだけで生きるのではない、神の口からでる一つ一つの言葉によって生きる人間は、パンの飢饉以上に深刻な状況でした。

 ヨハネは、悔い改めを迫るとともに、自分のあとには、自分以上の方がおいでになる、この方は、水でバプテスマをさずけるのではなく、聖霊と火でバプテスマを授けられるお方で、自分はその靴の紐をとく値打ちもない、そんな方がおいでになる。わたしはその先駆け、露払いでしかないのだと、ほどなくお姿を現される方のことも語っていました。


 バプテスマのヨハネがヨルダン川で悔い改めと罪の赦しの洗礼を授けているのをお聞きになって、主イエスは、いよいよ、ご自身が公の場に出て、救い主としての働きを始めるときが来たのを自覚されました。そしてガリラヤのナザレを出、ヨルダン川のヨハネのもとに行かれました。罪の赦しの洗礼を受けるため多くの人がヨハネのもとに集まり、彼から罪の赦しの洗礼を受けていました。そんな人の列の中に主イエスが立っておられ、ご自分の順番を待っておられたのです。その順番がきた時、主イエスは、ヨハネの前に出られました。
驚いたのはヨハネです。「自分こそあなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが私のもとに来られるのですか、私は罪の赦しの洗礼をさずけていますが、あなたはその必要がないばかりか、むしろ罪の赦しを与えるお方ではありませんか」ヨハネはそのように自分のもとにこられた主イエスを見てそう叫び、主イエスが自分から洗礼を受けようとされるのをとどめようとしました。そのときすでにヨハネは、主イエスはただならぬお方であるということをするどく見てとっていたのでしょう。
 しかし主イエスは、「いまはそのまま受けさせてもらいたい、それが正しいことなのだから」とお答えになって、ヨハネから罪のゆるしの洗礼をお受けになりました。それは、フィリピの信徒への手紙 2章で言われているように、ヨハネが、主イエスが来られたとき、身をかがめ履物の紐を解く値打ちもないと言って、身を引かざるを得ないお方であるにもかかわらず、ご自分を私たちと同じ、罪を負うひとりの人間とされたということを意味しています。そしてそのような主イエスの謙遜のできごとのあと、天が開け、神の霊が主イエスの上にくだり、そして父なる神のお言葉が、主イエスに向け天から響いたのでした。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」という言葉が。それはまた「まことの人」とはどういう人かということを父なる神が示されたことでした。

 主イエスが、なぜ罪のゆるしの洗礼をお受けになったのかについて思いを巡らします。それは私たちの弱さや至らなさと一つとなり、私たちの幸いのために仕えるためでした。それに対して、私たちは、仕えられ・してもらうことを求めます。身勝手で、人にいやなことは押しつけても、自分はしたくない。人に仕えるのはごめん、人のしりぬぐいなどまっぴら、というのが私たちです。仕えられて喜ぶのが私たちの姿ではないでしょう。

 しかし主イエスご自身は、仕えられる身でありながら、仕えるために父なる神のみもとから、私たちのところにおいでくださったお方です。ご自身を罪人の一人とされ、私たちの罪の始末をするために、おいでくださったお方です。「わたしは仕えられるためではなく仕えるために来た、多くの人のあがないのために自分のいのちを与えるために」と。

 主イエスが、バプテスマのヨハネのところで洗礼を受けられたことの中にすでに十字架の影を見ます。そして仕えるとはどういうことかを知るのです。それは、主イエスの十字架のゆえにもう自分のことは心配しなくていい、父なる神におまかせできる者とされている。だから自分のことを求めず、自分からを与える者になるということです。主イエスは、そのことをご自身に従う者になんどもお教えになりました。マタイによる福音書 18:1以下でも言われていますように、自分を低くする者こそ神の国では一番偉いということを。もちろん偉くなろうとして自分をわざとらしく低くするという意味ではありません。むしろ仕えられることより、仕えることの方が神に近く、またほんとうのことで、大きいことなのだと教えておられるのです。

 そして実際、主イエスは、十字架につかれる前の晩、ご自身、たらいに水をとって、タオルを腰に巻き、弟子たちの足を洗い、その足をぬぐわれました。ペテロは恐れ多い、もったいない、そんなことをしないでくださいと後ずさりをしましたが、主イエスは、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、わたしとあなたは関わりのない者になるのだから、いまは洗わせてくれ」と言われたのです。
 主イエスの洗礼は、私たちの救い、望み、いのちとなるための謙遜なお姿の現れでした。そして、この主のご謙遜、その深い愛からの謙遜のゆえに、私たちはほんとうに、生きることのできるものとされました。そしてヨハネが「聖霊によって洗礼を授けられる」と語ったその洗礼を、私たちはお受けしました。聖霊なる神は、神のご愛を見させ、キリストの恵みをみ言葉を通して私たちの目の前に描いてくださるお方です。そして私たちの内にいてくださり、落ち込んだり、悲しんだりなどする時、父なる神のご愛を、主イエスとともにいてくださることを示してくださいます。

 フィリピの信徒への手紙 2:5以下のところで使徒パウロは、キリストのご謙遜を私たち兄弟姉妹の間で生かしなさいと勧めています。今年もまた私たちに先立ち、また私たちとともに歩んでくださる主イエスにならい、兄弟姉妹のことを思い、互いに心から仕えあう兄弟姉妹でありたいと願い祈ります。主イエスのお心を、主ご自身がお与えくださるように祈り、この年の日々を歩ませていただきたいと願います。

 旧年に続いて、今年もしばらくはコロナと付き合っていくことになります。あまり楽観的になれない新年です。見通しは暗いように思われます。しかしきのうも・きょうも変わることない、主イエスがこの年、なお私たちの身近にいてくださり、ともに歩んでくださること、このことは、変わることがありません。旧約聖書 哀歌 3:22〜24のみ言葉に、『主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。...』というのがあります。朝ごとに新しい主なる神の慈しみ、憐れみは、それはまた年ごとに新しいということでもあります。この年、不安と恐れを抱かせるような先行きですが、それよりもたしかな主なる神の慈しみ、憐れみが、どのように示されるのか期待し待ち望みながら歩ませていただきたいと思います。

2021.1.17 本日の説教要旨「私を呼ばれる神」 

 ローマの信徒への手紙は、まだ一度も行ったことのないローマの教会の人たちに対して書かれた手紙です。手紙の冒頭に、まずイエス・キリストを紹介しています。初めての人に手紙を書くときは、自分の事を紹介しますが、パウロはどのように自分を紹介したかと言うと「私はイエス・キリストの僕(しもべ)です。」と紹介しました。この僕というのは「奴隷」という意味です。「私の主人、私がお仕えしているのはイエス・キリストです」と語ります。
 今日の日課の旧約聖書は、皆さんもご存知の箇所です。「サムエルの祈り」という有名な聖画がありますが、当教会の信徒の方から戴いて集会室の二階に掛けてあります。
そのサムエルは、神さまから預言者の一人としてたてられました。
 エリは少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに「主よ、お話しくさい。僕は聞いております。」と言いなさいと教えました。
神さまは私たちひとり一人の名前をも、呼んで下さいます。「僕は聞きます。主よお話しください」と、サムエルのように神さまの呼びかけに答えていきたいと思います。
パウロが「その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために」と伝えているように、私たちも「救い主を知らない人々を信仰へと導くために」コロナ禍にあって、主をあがめてキリストの僕として歩んでいきたいと思います。

 

お祈りいたします。
「教会のかしらなる主イエスよ。あなたは、私たちを救うために父なる神さまより遣わされ、私たちの罪の根っこまで降り、罪から救い出してくださいました。どうぞ、私たちを主に仕える僕としてお用いください。主の聖名によってお祈りいたします。 アーメン」

2021.1.3 本日の説教要旨「新しい年を、今日を大切に」 

 私は時々、テレビで渥美清の「男はつらいよ」を見ている。流れ者の寅次郎が久々に故郷のおじさんの家に帰ってくる。「おじちゃん、おばちゃん今けえったよ」と二階の自分の部屋に上がろうとすると「お前の部屋はよそさまに貸している」と告げる。寅さんは顔色を変えて飛び出して行く。

 人間の生きている姿は、場所を持つこと、自分のスペースを持つことである。人間の交わりは場を分かち合うことだ。しかし、人間は神の前の場所を失っている。人間が失った根源的な場所は神の前である。

 東京の下町に70歳を過ぎても元気に働くおばあさんがいた。ある日の夕方、ふらっと教会に迷い込んで来た。一人の若い女性が赤い座布団を差し出した。おばあさんはすぐ教会をとび出して行く。親しい人々の語り合いを見ると、自分の来る所ではないと思ったのだ。

 それから二か月後、開け放たれた玄関を見て背中を押されるように教会に入って来た。そして、つぎだらけの赤い座布団に座った。彼女はその後、救いにあずかり受洗した。

 私も、座り心地は悪いが、神さまのそばに置かれているのだ。