牧師の一週一言

2021.2

2021.2.28 本日の説教要旨「主イエスの背を見つめて歩む」 

 弟子たちはこれまで、主イエスと共に宣教の道を歩みました。その間、数々の奇跡を体験し、また、多くの教えを受けました。弟子たちは、「主イエスこそ我らの王であり、私たちを救って下さる方である」と信じて疑いませんでした。そのとき、主は弟子たちに意外なことを話されたのです。「主イエスが多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者から排斥されて殺される。」それを聞いたペトロはとても信じられませんでした。「まさか、そのようなことは起こるはずがない」しかも、群衆の前でそのようなことを言われたら、今までイエスさまに従ってきた私たち弟子は信用丸つぶれとなる」と思い、あわてて、主イエスをわきへお連れしていさめたのです。しかし、主イエスは真剣な面持ちで、「サタンよ引き下がれ。」と叱って言われたのです。ペトロは驚いたことでしょう。それも、弟子たちを見ながらです。その時の情景が浮かんでくるようです。私は、この聖書の箇所を読んだとき、私もこの場所にいたなら、ペトロと同じことを言ったであろうと思いました。
 主は、群衆と弟子たちを呼び集めてキリストに従うことの厳しさを教えられました。「自分の十字架を背負って私に従いなさい」ということです。人生の只中にあって、苦しみ、悩みや悲しみが多く起こってきますが、その時々に主イエスを中心に据えて、信仰の道を歩むことを強く教えられます。主を信じる者には厳しい道のりがあることも知るのです。
 私は、津教会で牧会した時にクリスチャンホームの一人の信者さんの結婚式をしました。1か月前にそのお父さんから「嫁である35歳の方が突然倒れ意識不明の重体で、お祈りをして欲しい」と、それからも度々電話がありました。ご子息とも祈りましたが、意識不明のまま先日24日の早朝、天に召されました。二人の子どもさんがおられますが、慰めの言葉もありません。 十字架とは、それぞれに負っていかなければならないものだと痛感させられています。どのような時にも十字架を背負い「主イエスの背を見つめてむ」とき、慰めと希望が与えられるのです。

お祈りいたします。

「日毎に私たちを養ってくださる父なる神さま。主は弟子たちに、主の歩むべき十字架への道を教えられました。信じることのできなかったペトロはまさに私です。今一度、主イエスさまの背を見つめて歩む者とさせてください。主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。 アーメン」

2021.2.21 本日の説教要旨「悪魔の誘惑」 

 新共同訳では「悪魔の誘惑」となっていますが、聖書協会共同訳によりますと「悪魔の試み」とあります。その以前の口語訳聖書では「悪魔の試み」となっていますので、どちらかと言えば、試みがふさわしいかと思います。
主イエスが救い主として世に登場しようとするとき、悪魔は誘惑を仕掛けてきました。40日断食をして空腹の苦しみを味わわれた主のもとに悪魔が来て「石をパンに変えてみよ」と迫ったのです。主は「人はパンだけで生きるものではない」と申命記のみ言葉で退けました。
 第二の試みは、高いところに引き上げて、「この国の一切の権力と繁栄を与えよう。私を拝むなら」という誘いに主は「あなたの主である神を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてあると言って退けました。
 第三の試みは、エルサレムの神殿の屋根の端に立たせて、「飛び降りてみよ。そうすれば、み使いが支えるであろう」というのです。救い主として自らを公にするなら、安全な人生が保証されると言うのです。主は「神である主を試してはならないと書いてある。」とお答えになり全ての試みから悪魔を退けられました。悪魔は去っていきますが、終りの箇所の「時が来るまで」という言葉に目がとまります。それは、まさしく主イエスの十字架の出来事に違いありません。
 私たちにも日常生活で悪魔の試みを受けます。日ごとのパン、安全な人生、栄光と権力、これらはすべて私たちが人生の最高の価値や幸福を追求していることです。これらは一口に悪いこととは言えませんが、それを自分のものとしようとしたとき、あるいは他者を脅かす者となるかもしれません。私たちの中心に、私やこの世の良きものではなく、主イエスを据えたいと思うのです。
 救い主の本来の使命は、試みを退けて、罪と死の中にある私たちを救い出して下さることであり、そのためにご自身を犠牲にして下さったのです。四旬節を迎えて、主のお苦しみを心で受け止めたいと思います。

お祈りいたします。

「私たちをあがない、救い出して下さる主イエスさま。悪魔の試みに打ち勝たれた主イエスの後に従っていく者とさせてください。四旬節を迎えて、よりいっそう主の者とさせてください。コロナ禍にあって教会の一人ひとりをお守りください。主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。 アーメン」

2021.2.14 本日の説教要旨「闇に輝く光」 

 私たちはイエス・キリストにふれ、その栄光、恵みのすばらしさを知る時、その喜びの中にいつもとどまっていたいと願います。そのイエスさまに出会い、主を喜ぶ生活をするために教会生活がありますが、コロナ禍にあって教会で共に礼拝が出来ない辛さを抱えています。

 弟子ペテロは、ヤコブ、ヨハネと共に高い山に登り、主イエスの変容の姿に遭遇しました。イエスさまの姿は変わり、顔は太陽のように輝き、服は真っ白になり、モーセとエリヤが現れてイエスと語り合っていました。主の栄光を見た弟子たちは賞賛し、共にいることを喜びました。その時、雲の中から「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け」という声が聞こえました。

 この主イエスの変容と同じような記事が、出エジプト記 34:29~35の箇所にも記してあります。「モーセは主の栄光を仰ぎ見て、シナイ山を下ったあと、その顔は光り輝き、民たちは恐れてモーセの話に耳を傾けた。モーセは光り輝いている間おおいをかけて、再び主のみ前に行って主と語るまで顔におおいをかけていた。」とあります。

イエスは「復活するまで、今見たことを誰にも話してはならない」と命じられました。

 私たちはイエスさまの十字架と復活を通して、その栄光を見、証しをする者です。十字架と復活を通してのみ、私たちにその栄光を宣べ伝えることが許されているのです。

 キリストの栄光はその輝かしさの中に現わされましたが、しかし、それは十字架の道へと続くのです。私たちは、それを宣べ伝えるためには十字架を通さなければなりません。それが、主によって救われ、召し集められた一人一人に対して、主が命じられていることです。

来週は、キリストの苦しみと十字架を覚える四旬節に入ります。

私たちはキリストの栄光を表す存在として、その十字架を証ししていきたいと思います。

お祈りいたします。

「天の父なる神さま。主の変容は私たちの教会の原点です。栄光に輝くイエスさまを信じます。主の栄光とキリストの十字架を通して私たちを救いへと導いて下さいます。その信仰を人々に伝える者とさせてください。主イエスキリストによってお祈りいたします。 アーメン」

2021.2.7 本日の説教要旨「福音のためなら」 

 先週の日曜日の朝、テレビのチャンネルを回すとキリスト教の話が耳に入りました。あとで「ライフライン」だったことがわかりましたが、テレビをご覧になられた方もおられるかもしれません。出演されていた先生は、千葉県にある東京基督教大学の大和昌平先生で、最近『牧師の読み解く般若心経』という本を出版されました。
日本には仏教が根付いていますが、その仏教とはどのような宗教であるかは、知らないことが多いのです。大和先生のお話を紹介したいと思います。

 

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 仏教は、哲学的宗教としておこりました。「ギリシャの宗教は、自らがよりどころである」ことに対して、キリスト教は「神との関係に生きていく」というものです。ヨーロッパではこの二つが向かい合って、きわめてギリシャ的な宗教が仏教であると思います。仏教は、日本ではお葬式の宗教のように思われているところがあります。しかし、ヨーロッパでは非常に新しく、グーグルで調べると、社員の緊張緩和のために教育をしているという普遍的な宗教とあり、学ぶべき相手だと思います。
聖書はきわめて対照的に「生ける神との関係に生きていこう」という「神を愛する、そこから私たちの生き方が変わっていきます」色々な面で仏教が持っているものとひびき合うものがたくさんあります。

 仏教で聖書に見合うような経典があるかと言いますと、お釈迦さん、仏陀の語った言葉全部がお経になりました。仏陀は紀元前5、6世紀に80年生き、その後もお経が書かれて、書かれたものはみな経典になり、どんどん増えていきました。
かたや聖書は「神に導かれて書かれたもの、霊感といい、それを聖書である」というふうに定めてきているので増えません。


 仏教では修行を重んじます。般若波羅密多(はんにゃはらみた)とは「般若」は智慧といい「悟りの知恵」であり「波羅密多」とは「完成」という意味です。これは、とても大切なこととして語られています。「完成」という意味において、「自ら完成する」「完全に悟りの知恵を開いた人」を「仏陀」と呼びます。「自ら知恵を開いて仏陀になれる」「修行によって上に向かっていく」そのような方向性があります。
 そこに対比して聖書は「上から神が私たちのところに来てくださった。神の子が人となってくださって、そのお方が私たちの不完全さを、みな負ってくださった。修行ではなくて、イエス・キリストにより頼むことによって救いを受けるんだ」ということを語っています。方向性から言えば仏教とは真逆です。

 

「上を目指す者」が仏教であり「上からいただいて生きる者」がキリスト教です。

 仏教を知ることによって大学で仏教を教えて、自分がどのような信仰に生きていて、自分がキリスト者であることがはっきりしてきました。宗教学の開祖と言われ、ドイツに生まれてイギリスに帰化した言語学者・宗教学者のフリードヒ・マックス・ミュラー(1823~ 1900)は「一つの宗教しか知らない人は自分の宗教も知らない。他の宗教を知る人こそ自らの宗教を知る」ということを言いました。その言葉から宗教学が始まっています。
 仏教には敬意をもっています。それを学ぶことを通して人間を超えたところから神は語りかけておられて、私の知識とかではなく、人格的にもう一度回復させようと、神がしておられるんだということがよくわかるようになりました。また、彼らが求めているものは「完成」です。不完全な私ではなくて、悪をかかえる私ではなくて、人として完成を目指したいと思うのです。人間として生まれた者は誰しも思うことです。

 フィリピの信徒への手紙 3:12~14『わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。』

 この聖書の言葉は、般若心経が好きな方にはわかると思うのです。「自分を超えていきたい」「ここでとどまってはいけない。上に行きたい。」と思われる方には、この言葉は響くと思うのです。
そういう方に「聖書を知っていただきたい」という思いで「牧師の読み解く般若心経」という本を書きました。

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 私も改めて、大和先生のお言葉を新鮮な気持ちで、神の言葉として聴くことができました。大和先生のお話は、きょうの日課の聖書に通じるものがあります。できるだけ多くの人を信仰に導くために、相手を知り、敬意の心で相手の気持ちになって寄り添うこと、そこからが福音の初めと言えるのです。
 ユダヤ人に対して、律法に支配されている人に対して、弱い人に対して、その人たちを得るために、福音を伝えるために寄り添うことです。敬遠すれば、その人たちも離れていくことになります。それは、なかなか難しいことかもしれません。家庭にあって、職場にあって、宗教や考えの違う人たちの中で、共に生きることは大切なことだと教えられます。
仏教国ともいえるこの国で、唯一の神を信じることのできる幸いを改めて感じています。

お祈りいたします。

「天の父なる神さま。今日のみ言葉を感謝いたします。今、コロナ禍の中で苦しんでいる方々がおられます。どうぞ、祈りを篤くして寄り添うことができますようにお導きください。教会に連なる人たちの上に神さまのお守りがありますようにお祈り致します。主イエスさまのみ名によってお祈りいたします。 アーメン