牧師の一週一言

2020.12

2020.12.27 本日の説教要旨「希望に満ちた新年を」 

 ある雑誌に「私は聖書一年生」という人が小難しくいじくりまわし聖書を読まず感じたままを先入観を持たずに画を文章にしているという。これは私には真似のできない健康的な聖書の読み方かもしれない。

 聖書の中の人物に主イエスの母マリアとか、旧約聖書の預言者エレミヤがいる。とくにマリアは貧しい田舎町に生まれ、やがて大工のヨセフと婚約する。しかし神はマリアを、神の子主イエスの母としてお選びになった。

マリアはヨセフに伴われて旅先の馬小屋で主イエスを生むことになる。マリアは戸惑い神に抵抗するが、最後は受け入れる。

私は、マリアもエレミヤも特別な人だとは思えない。二人ともありのままの姿で用いられた。マリアは卑しいはしためのままで。エレミヤは年若い未熟なままで神に従う。人とエバの里か、アダムとエバの里か、エバの里は人間の暮らしを求め、マリアの里は信仰の世界を現わす。

 現代人はエバの里、暮らしの里にあこがれ、マリアの里は信仰の里である。

 こんな話がある。長らく中国伝道をしていたハドソン・テーラーが中国にやってきた。宣教師とお茶を飲んでいた。テーラーはいきなりテーブルをこぶしでたたく。コップの中のお茶がこぼれた。テーラーは「中国で伝道していると、いろんな迫害や困難に出会う。その時、何があなたがたから溢れ出るのか。もしキリストがあなたたちの命なら、イエスの命が溢れるのだ」と。

2020.12.20 本日の説教要旨「クリスマスをあなたに」 

 昔、ある町のキャバレーの親父さんがクリスマスに教会の前を通り、クリスマスツリーが飾ってあるのを見て、けげんそうに「近頃教会でもクリスマスをやるようになったんだなあ」とつぶやいたという。教会のクリスマスも、どうかすると本来の静かな喜びを忘れてしまうことがある。
 ルカによる福音書によると、夜も寝ずに羊の群れを見守る貧しい羊飼いに、主イエスの誕生のニュースが伝えられた。「恐れるな。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」羊飼いたちは「われわれに、天使たちが教えてくださった」と言って喜び、その場所にかけつけた。そこには、自分たちより貧しい状態で飼い葉桶に寝かせてある、主のみ姿を見た。彼らは極度の貧しさの中にある主イエスを見、神をあがめ、賛美しながら自分たちの生活の場に帰って行った。
彼らはもはや、単純に「自分ほど不幸せな人間はいない」とは考えなくなったであろう。
 たとえば、あのドストエフスキーは、若者を惑わした罪で、シベリアに流刑となった。12月24日に足かせをされ、田舎町の留置所で、中年の看守が思わず口にした言葉、「辛抱するんだよ。キリスト様も苦しんだのだからなあ」この一言がドストエフスキーの心を打ち、この言葉は生涯、彼が生きていく上での支えになったという。

2020.12.13 本日の説教要旨「主の道を備えよ」 

 中世の画家が洗礼者ヨハネを描いた。洗礼を授けている場面や、悔い改めを迫るヨハネではなく、一定の方向を指し示す 「指」を描いたのである。
洗礼者ヨハネは、その言葉や行動を通して、救い主の道備えをし、生涯をかけてキリストを指し示す「指」として生きた人であった。私たちは自分が指差されて中心に置かれ、重要視されることを望んでいる。しかし、ヨハネはそうではなかった。自らの栄光を求めず、 イエス・キリストのみ姿が浮き彫りにされることを願って、その使命を全うしたのである。

 次に、ヨハネのメッセージを学ぼうと思う。

 ヨハネのメッセージの中心は「悔い改め」である。「悔い改め」とはギリシャ語で「メタノイヤ」と言い、二つの合成語で 「メタ」→「変える」「ノイヤ」 →「思い」で「思いを変える」であり「方向を転換する」ことである。 旧約聖書では「帰る。戻る」と言う意味で、神にそむいて生きていた者が方向を転換して神に帰り、そこから新しい生活を始めることである。

 ヨハネは救い主を迎えるのに最も大切なことは「罪を悔い改めて神に立ち帰るように」備えることを訴えたのである。
ヨハネは当時の国王ヘロデに殺されたが、その生涯はわずか31年であった。(マタイによる福音書14章1~12節)

2020.12.6 本日の説教要旨「洗礼者ヨハネ」 

 「おお、主よ。私たちは願います。私たちの祈りに耳を傾け、あなたの訪れの恵みによって、私たちの心の暗闇を照らしてくださるように。」
 この言葉は、古代教会が主を待望する「降臨節第二主日」で読まれたものである。バプテスマのヨハネは主を先導する者として神より選ばれた。ヨハネは自ら「荒れ野で呼ばわる者の声」(ヨハネ1:23)と称した。荒れ野とは闇である。闇の世界では音声だけが頼りである。ヨハネは光ではなく、ただ音声として闇の世界の導き手となる。
ヨハネはただ、来るべき光を真実に受け取らせるために人々の心を開かせる働きをするために選ばれたのである。
 闇から光へ、言葉から肉体へ、声から主イエス・キリストへ。
 バプテスマのヨハネは、この橋渡しに生きた証人である。