牧師の一週一言

2020.1

2020.1.26

 英国の説教者スポルジョンがスコットランドのあるホテルに泊まった時の話があります。枕元に1冊の聖書が置いてありました。手に取ってみると、その聖書の上から下までずうっと、光の通る位の小さな穴があいているではありませんか。原因は?言うまでもなく、虫が喰ったあとでした。そこでスポルジョンは祈ったのです。「おお主よ、私をこの虫のようにしてください。アーメン」虫は虫でも、オジャマ虫でも弱虫でもありません。み言葉を食べる虫です。「み言葉を食べる」と言う表現は聖書によく出てきます。

 「あなたのみ言葉が見い出された時、わたしはそれをむさぼり食べました。」(エレミヤ書 15:16)

 「人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ腹を満たせ」(エゼキエル書 3:1~3)

そうか、聖書というのは読んで食べるものなんだ。

今年は、聖書を食べる位の迫力をもって読みましょう。

2020.1.19

 以前働いていた教会で、他教団の信徒の訪問を受けました。訪問の目的は、信仰問題の悩みでした。彼は自分の問題を牧師に話したのですが、信仰には疑いやあいまいさがあってはならないと言われたそうです。その言葉で更に悩みの深みにはまって、疑いと自分のいい加減さに悩んでいたのです。それから2年ほど私たちの教会に通っていましたが、仕事で他県に移って行きました。

 信仰は「信仰か、さもなければ不信仰」というように二つに分けることはできません。私たちは、信仰と不信仰の間を行ったり来たりして揺れ動いているのではないでしょうか。その二重性を引っ提げているのが真実な姿です。

 カトリック信者の作家である森内俊雄さんが「しょっちゅう疑っている訳ですからねえ、99%の疑いと、1%ですけれども、その1%がどうしても消えないで、私のうちに確かに残っているんです。」と仰っていました。

 1%の信仰でも良いということです。それならば、私たちも何とかやれそうですね。

2020.1.12

 ある新聞でひとりの医師が「生き方を変える」と題して次のように書いていました。「人は死ぬことを理解することが大切です。くよくよせず、毎日楽しく、感動して過ごすことです。」楽天的で一見無責任のようですが、「人は死ぬ」という当たり前のことをなかなか理解できません。

 フィリピの信徒への手紙 4:6にある「どんなことでも思い煩うな」というパウロの言葉を思い起こします。パウロは獄中で多くの思い煩い、死への不安や恐れもあったと思いますが、こう書き記しました。

 私たちの人生は、あっちを向いても、こっちを向いても悲しいこと、辛いことが山ほどあります。生きることも、死ぬ時も、毎日を主に委ねることによって喜びと平安のうちに過ごすことができるのではないでしょうか。

 ある居酒屋の壁に大書していた言葉がありました。「喜べば、喜びごとが、喜んで、喜び連れて喜びに来る。」

2020.1.5

 新年明けましておめでとうございます。

型通りの言い方になりますが、今年もまた、皆さんと共に力を合わせ、心と祈りを一つにしながら、主にお仕えし、み国の全身のため励んでまいりましょう。

 咲(えま)という古人の佳き言葉に「花のあふるる老木一樹」があります。「古木がニコニコ笑っている」との意味にも取れると言っています。

 今、老人たちの口から笑い声が消え、若い人たちからも花が咲くような笑い声がなくなりました。そして、渇いた笑い、騒がしい笑い声、無意味な笑い声が広がっています。

『さあ涙をふいて、あなたが花になりなさい。あなたの花を咲かせなさい。探しても探しても望む花がないなら、自分がそれになりなさい。』(おおぞねとしこ)

​ せめて、花の溢るる老木一樹になりたいものです。