牧師の一週一言

2020.2

2020.2.23

 山折哲雄氏が初めてマザーテレサに会った時の印象について書かれている本を最近読みました。まず、山折氏がテレサと会談するために約束より少し早めに来て待っていると、ちょっと離れている所からコツコツというハイヒールの音を立ててやってきました。非常に快活で、早いテンポの歩き方でした。さらに驚いたのは、身のこなしが軽やかで力強く、若々しいのです。そのころ彼女は、70歳を過ぎていました。このようなテレサの姿に接して、山折氏は、一般に聖書とか悟りを開いた人というと静かで不動というイメージがありましたが、むしろ「ほんとうの聖者というのは、活動的で快活な人ではないか」と言っています。

 同氏は、マザーテレサに会って、「死を看取る仕事をして、思い通りいかないときや苦しい時はどうしますか?」と尋ねると「神さまに祈ります。時には夜通し眠らずに祈ります。」と答えられたそうです。

 この祈りの姿は、先に述べた活動的で活発的な姿とは逆に全くの「静」の姿ではないでしょうか。「動」と「静」のバランスこそ私たちの信仰生活を豊かにする原動力となります。

2020.2.16

 過日、教会の玄関先で仕事をしていると、道行く人から「キリスト教はどんな宗教ですか?」と尋ねられました。私は「キリスト教は愛の宗教です」と答えました。キリスト教が愛の宗教であることは、聖書の全頁に埋めつくされていると言っても過言ではありません。特に新約聖書は、神の愛に満ち満ちています。旧約聖書も神の義を主張しているようにも思われますが、その義は極力神の愛が語られています。
 長い間、野鳥を飼われた人の話によると、どんなに飼い馴らすのが難しい鳥でも飼育できない鳥はないそうです。むしろ、人に馴れ難い鳥ほど一旦飼えば親密度が増すと言っています。そして野鳥を飼い馴らす唯一の秘訣は愛であると言っています。
 神の愛も、神を求めない者を愛する無我の愛ではないでしょうか。神は愛するに価しない人間を救うためにご自身のみ子を打ち、その傷口から流れる血によって私たちをいやしてくださいます。

2020.2.9

 私が伝道者として初めて遣わされた教会に一人のご婦人がおられました。彼女は日曜日の礼拝はめったに欠かしたことはありませんでした。いつも前から2番目の席に座って、礼拝の始まる前奏のときには祈りの姿勢をとり、心を静めて礼拝に臨まれていました。この婦人はご主人の強い反対もあり約8年間礼拝に出席することができなかったのですが、ご長男にクリスチャンのお嫁さんが与えられてから、ようやく礼拝に出席することができたという喜びと感謝の気持ちが一つひとつ動作に表れていました。彼女は日曜日の午前中は人と会うことや、雑用はいっさいしませんでした。自宅を訪問される方には「日曜日私に用事があれば教会に訪ねて下さい」と伝えていました。
 教会はクリスチャン生活と教会諸活動の中心です。信仰生活の他の点でどんなに成長しても、もしも礼拝生活が確立していなければ、あるいはまた、教会や社会で立派に他の活動をしていたとしても、礼拝がその中心に据えられていなければすべては空しいものになってしまうのです。

2020.2.2

 以前「ほほえみ」という心を打つ詩を読みました。作者の名前はどうしても思い出せませんが紹介します。
  ほほえみ、それは少しも元手がかかりません。
   しかし、多くのものを人に与えてくれます。
  ほほえみ、それは人に与えてもいっこうに減りません。
   しかし、貰った人を限りなく豊かにします。
  このほほえみは、お金で買うことも、人から借りることも盗むこともできません。
  ほほえみ、それは疲れ切った心に休みを与え、悲しんでいる人に光をもたらし、失望した人に励ましを与えてくれます。
  ほほえみ、それは人生のあらゆる問題に対して神が与えてくださる妙薬です。
教会と言えども人が集まる所です。「交わりの和」を広げるためにも「ほほえみ」を忘れることなく身につけていきたいと思います。主イエスのほほえみに守られているのですから。