牧師の一週一言

2020.5

2020.5.31 本日の説教要旨「聖霊を受けなさい」

 私が神学校を卒業して最初に赴任した教会の近くに、聖霊を強調する教会がありました。その教会に熱心な信徒夫妻がおられ「祈っていると突然聖霊が降り、体内に電気が走ったような体験をした」というのです。
 本日は、キリスト教会の三大祝日の一つであるペンテコステ(聖霊降臨日)で、この〝ペンテコステ〟とはギリシャ語「50」を表します。主イエスが復活して50日目に約束の聖霊が降り、地上に初めて教会が誕生し、伝道が開始された日です。
 聖霊降臨は、不思議な奇跡や神秘的なパワーが与えられたりするのではありません。聖霊が主の群れに注がれたのは、私たちが主を信じ、信じる喜びを多くの人たちに伝えるためです。
 三浦綾子さんの小説「塩狩峠」にとても心を打たれた実話があります。主人公 長野正雄が、乗っていた列車の連結が外れて、暴走する危険を察知し、身を呈して止め乗客の命を救ったというのです。長野氏はその日、自分の結納を届けるために列車に乗り塩狩峠で事故にあいました。家で妹が兄の帰りを待っていると、家中響き渡るほどの大きな音がしたのです。それは、兄が身を呈して列車を止めたのと同じ時刻でした。長野氏は、キリストの愛を身をもって証ししたペンテコステの体験者なのです。
 聖霊は、私たちが神の愛に生き、この愛を証しするために与えられたのです。

2020.5.24 本日の説教要旨「今の時をどう生きるか」

 本日は「主の昇天主日」です。主イエスは十字架に死に、3日目に復活され、40日間使徒たちをはじめ信じる者たちにのみ御姿を現されました。

 主が昇天される直前に使徒たちが「主よ、イスラエルの国を立て直して下さるのは、この時ですか?」と尋ねた時、イエスは「父がご自分の権威を持ってお定めになった『時』や『時期』はあなたがたの知るところではない」と言われました。

 使徒言行録1章7節には重要な2つの言葉があります。『時』と『時期』です。

『時』や『時期』は、言語のギリシャ語で「クロノス」と言い、ギリシャ人は神の像でクロノスを表していました。このクロノスは、体は人間、頭は獣。毎日毎日子どもを産みますが、産んだ子どもをムシャムシャと食べ、また次の日には新しい子どもを産んでは食い殺すように一日一日が過ぎてゆきます。新しい日が来るようでも、全て滅びて行きます。これは、ギリシャ人でも日本人でも同じ考えであると言え、絶望的人生観です。

 またギリシャの神殿には、『時』や『時期』を表すもう一つの「カイロス」の像がまつられてありました。このカイロスの神というのは、裸の青年で頭のてっぺんに一掴みの髪の毛が生えていて、足には羽があります。運良くその髪の毛を掴まないとすぐどこかへ飛んで行ってしまい、素早くしなければ! 早く手を打たないと間に合わない! チャンスを逃してはならない! 後で後悔することになる! と焦るのです。

 今の時をどう生きるのか。「コロナは世界第3次戦争だ」とも言われています。「あぁ面白くない。こんな日がいつまで続くのか....」

 その時、主は天に昇られました。再び来ます主が約束の聖霊なる神を降ろして下さるのです。

『今や、恵みの時、今こそ、救いの日。』(コリントの信徒への手紙 二 6:2)

2020.5.17 本日の説教要旨「神の中に生き、動き、存在する」

 随分前の話です。ある牧師が神学校を卒業後、愛知県で一軒の家を借りて開拓伝道を始めました。そこに一人の病弱な青年が下宿しており、この青年はある日とても恐い夢を見ました。夢の中で彼は近くの豊川稲荷にお参りに行きました。その時、得体の知れない恐ろしいものが社の後ろから出て来て、彼はギュッと抑え込まれたところで目を覚ましました。彼はすぐに寝ていた母を起こして見た夢の話をすると、母親に「これは神の祟りだよ」と言われました。しかしその時「聖書の神さまは愛の神だ。」という牧師の言葉を思い出し、やがてこの青年は洗礼を受けたのです。

 使徒言行録によると、パウロはアテネの街に行った時、沢山の神々が祭られていたのを見て、アクロポリスの評議所で「あなたがたは信仰に篤い方々だが、真の神を知らずに拝んでいるから真の神を教えよう」と言い、キリストの十字架と復活を話すと人々はあざ笑って去って行きました。

 この世には、八百よろずの神がおり、人間の手によって作られた神です。しかし、神は下から作り出された神ではなく、上から、この地上にくだってこられたのです。私たちは、この神の中に生かされ、動き、存在しているのです。

2020.5.10 本日の説教要旨「道・真理・命」

 本日の福音書のみ言葉は、主イエスが弟子たちに語られた地上での最後の言葉、遺言と言ってもよいでしょう。「あなたがたは心を騒がせるな」との言葉は、主が私たちから離れてどこかに行かれる。彼らは波のように心が揺れ動いていました。その時主は、揺れ動く弟子たちに三つの言葉を残されました。①「道」②「真理」③「命」です。

①「私は道」

 多くの偉人や学者は「道」を説きます。ある詩人は「私たちの前には道がない」と言いました。しかし主は言われます。「私は道である。」主イエス・キリストを通って行く事によって父なる神の住み家へ行くことができます。「私は場所を用意するために行く」と主は言われます。

②「私は真理」

 旧約聖書はへブル語で書かれており、私たちが祈った後に唱える「アーメン」と言う言葉は、「堅い」「しっかりしている」「確かなもの」と言う意味です。堅いとは、へなへなしたり、何か起こると崩れ去るような弱いものではありません。主は、人生の足許から支える岩のようなお方なのです。

③「私は命」

 この言葉と対比されるのは「死」です。この世で確かに訪れるのは死です。しかし、主の十字架と復活は、最も確かに死を征服し、滅ぼして、命を与えて下さいました。トマスもアンデレもこの事を悟りませんでした。主を見た者は父なる神を見たのです。父と子は一体です。

 主の復活を喜ぶことは、イースター礼拝だけではなく、毎週の礼拝においても言えることで、日々主が生きて働いてくださる事を感謝したいと思います。

2020.5.3 本日の説教要旨「良い羊飼いと羊」

 本日は、日課から新旧約聖書の有名な二つの箇所を選びました。

まず、詩編23編は短い箇所ですが、詩編の中では大きな位置を占め、代表的な詩の一つです。この詩編は、羊飼いと羊のたとえを用いて、神と人間の関係を教えています。羊という動物は「迷いやすい」ことを象徴しています。私は、以前伝道していた教会で家庭集会をしていましたが、そこのご主人は、皆から尊敬され「仏さんのような人」と言われていました。死の直前に「私の人生は迷いの多い人生だった」と言って息を引取られました。

動物というのは帰巣本能を持ち、伝書鳩のように自分の巣に帰る力を持っています。しかし、人間は自分の力でねぐらに帰ることはできません。ゆえに羊である人間は羊飼いを必要とする弱い存在なのです。

 福音書では、「キリストは良い羊飼い」良い羊飼いは羊のために命を捨てると言われています。そして主は「わたしは羊の門である」と宣言されます。良い羊飼いは、迷いやすく弱い私たちを見つけるまで探して下さいます。

 古い中国の教えに「枝道多くして羊を失う」という言葉があります。ある金持ちが沢山の羊を飼っていました。ある時羊が逃げたので羊を捕らえるように言われ、しもべたちは探しに出かけましたが、途中枝道が多くてとり逃がしたというのです。

 キリストは、迷いやすい私たちを見つけるまで、探し出してくださる愛に満ちたお方なのです。