牧師の一週一言

2020.4

2020.4.26 本日の説教要旨「エマオ途上のキリスト」

 本日の日課は、大変美しい絵画的な物語です。二人の弟子がエルサレムからエマオ(約3里程)の道を東から西に向かって歩いていました。一人はレオパという人物で12弟子の一人ではありません。時は夕暮れ、西に沈みゆく夕日にはばまれて途上で同行した人の姿が見えにくかったのかもしれません。

 日本人には昔から、「西方浄土を進み行く」思想があるようです。しかし西方は、希望と同時に没落を意味します。西方に向かう二人の弟子は、気落ちして悲しそうな顔をして歩いていました。聖書には、エマオへ行く二人の弟子は復活の出来事を知りながら信じておらず、不信仰と、迷い、落胆の姿をしていたと書かれています。主はこの弟子たちに聖書を通して、キリストの復活へと説き導かれたのです。

 私は以前、北海道大学で英語教師のレーン夫妻に関する本を読んだことがあります。小樽教会の内田ヒデ牧師はスパイ容疑で刑務所に入れられ、そこでレーン先生と出会いました。レーン夫妻は、1942年(昭和21年)から2年間刑務所に入れられるのですが、時々自分のために差し入れられるチーズや食べ物をみんなに分け与えたのです。内田牧師はその時の事を「まるでキリストがご自身の肉と血を流してくださった聖餐式のようであった」と述べておられます。

 私たちも刑務所ではありませんが、コロナウイルスの脅威の中にあって、どこを向いても苦難の声を聴く厳しい状況の中を生きています。エマオに輝いた光は、今日も確かに私たちに輝き照らしてくださっています。

2020.4.19 本日の説教要旨「信じる者になれ」

 初めて教会に導かれ受洗したのは、札幌の北伝道所にあるルーテル教会でした。その伝道所に札幌医大の先生が熱心に求道しておられ、「その先生は洗礼を受けるだろう」と思っていましたが、やがて姿をみせなくなりました。伝道師に尋ねてみると、彼はキリストの復活が信じられないと去って行ったという事でした。

 本日の聖書に登場する主の弟子トマスは他の弟子たちはキリストに出会ったのですが、トマスは不在だったのです。彼は主が弟子たちにご自身を現わされた時、群れから離れてひとりどこかに行っていたのです。トマスは自分たちが頼みにしていた主が十字架につけられて、蘇ったといううわさがたち大変怖れていました。やがて自分たちも同じ目に遭うのではないと死の恐れを感じていたのです。

そんな中、復活の8日目に弟子たちと同じ部屋にいた時、主が現れたのです。主の復活が信じられず怖じ惑い、絶望の中にあり「私は傷あとに指を差し込まなければ決して信じない」と言うトマス一人のために主は現れました。神はこの時に信仰が弱く怖じ惑うトマスを目指して、そして復活を信じることのできない私を目指して、その姿を現して下さったのです。トマスは主を見て「わが主わが神よ」とひれ伏しました。

 主の復活を否定しキリスト教を抹殺しようとしたが、数年経ち熱心なクリスチャンになった英国の学者がいました。彼は「世にいろいろな宗教があるが、キリスト教のみが甦りの福音に生かして下さる宗教です」と語りました。

2020.4.12  本日の説教要旨「復活の主と出会う」

 主イエスが復活された朝、ユダを除く11人の弟子たちの様子ほど奇妙なものはないと思います。弟子たちは、主イエスは十字架にかけられて死に、三日目によみがえることを、主から三度も聞いていました。しかし、弟子たちは誰一人主の言葉だからと言って墓に行こうとはしませんでした。彼らは誰も復活されることを信じていませんでした。

 女たちは、特にマグダラのマリアともう一人のマリアはユダヤの安息日が終わった日曜日の早朝、待ちかねたように香油を手にして墓に急ぎました。墓に着くと突然、大地震が起こり墓の入り口をふさいでいた石が転がされ、天使がその上に座り主の復活を告げました。墓石は「生」の世界と「死」の世界をしっかりとふさぐ石でしたが、その石が転がされ無力化され、全人類を封印していた死は敗北したのです。

 女性たちはその目撃者でした。天使たちは主イエスの復活を弟子たちに伝えるように命じ、主とガリラヤでお会いするだろうと告げました。女性たちは喜びに満たされ、弟子たちに主の復活を知らせる前に主と出会いました。「おはよう」と言う声は平安(シャローム)を知らせる声でした。

 石井藤吉という極悪な殺人者が「主のご復活、私を罪の世界から呼び出してくださった勝利の声だ」と言いました。

罪と死の墓から私を呼び出してくださった主の声が響いています。

2020.4.5  本日の説教要旨「十字架をめぐる人々」

 本日より受難週です。教会はこの日、特別な日であり今週の金曜日は主イエスが十字架につけられた特別な日です。しかし、この日に起こったことは、私たちが毎日経験するし、私たちも十字架の周りにいる人たちと同じ罪を犯してきました。

だから、この日は、キリストを十字架につけた日であり、聖歌(400番)にあるように、「主が十字架にかかった時、君もそこにいたのか」と言う歌詞が心を打ちます。

 ある神学者が、「もし、人間は真に正しい人が私の前に来たら、人はその人を殺すか、その人から遠ざかる」と言いました。また「すべての人間には、美人のあざ笑いのようなものがある」とも言いました。まさにその通りです。この日キリストは、私たちのために「人々は何も分からずにこのことをしているのです。どうぞ、彼らをお赦しください。」と罪人のためにとりなしてくださいます。

 石井藤吉は「キリストは私を罪の墓より、復活させてくださった」と言って伝道者として献身されたのです。

私たちも、この主に最善のものをお献げしたいと思います。

 

聖歌 400番『君もそこにいたのか』

  君もそこにいたのか 主が十字架に付くとき

  君も聞いていたのか 釘を打ち込む音を

  君も眺めてたのか 血潮が流れるのを

  君も気が付いたのか  突然日が陰るのを

  君も墓に行ったのか 主をば葬るために

  ああー 何だか心が震える 震える

  君もそこにいたのか