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りんごの木

田畑淳牧師と川﨑かおり伝道師による日々の糧となる気付きや恵みをいただきます。どうぞお楽しみに!(不定期更新)

2025

2025.3.15  

 

「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある・・・

主の名を呼び求める者はだれでも救われる」 

聖書 ローマ書 10章8節,13節

 空腹を覚えられた神の御子を、悪魔は誘惑し神から引き離そうと試みましたが、イエス様は御言葉を心に留め、これを神様が与えられた試練として受け取り、むしろ神様への全き信頼、その信仰を告白する機会とされました。

 

 私たちが経験する様々な誘惑も、神様は試練として用いられます。私たちはそこで自分の無力さ、罪深さが明らかになり、心身ともに揺さぶられてしまいます。私たち自身は誘惑に弱いばかりか、自らの力で対抗する事もできず、神から引き離そうとする力に負けるばかりで、できる事なら近づきたくも、また一刻も早く逃げ出したいと思うものです。

 

 しかし、実にその全ても、神様の知らないところで起こっているのではなく、また決して、神様は私たちから遠ざかり無関心でおられるのでもありません。

むしろ、その只中に共におられ、共に苦しみ、共に泣き、それでも主である私は、あなたを助け、最後まで守り導き救い出すと、揺るがない御言葉の約束をもって支えていてくださいます。Ⅰコリント10:13に「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」とあります。御言葉に聞き、神様から試練として受け取る時、そこには必ず逃れの道があると知ります。それは主イエス様という真の道です。

 

 聖霊は、いつも御言葉を通して主の十字架の恵みを示しておられます。私たちの為に命を捧げ、そしてすでに勝利し、全ての罪を赦してくださった方が、今日も共にいてくださると。たとえ私たちをとりまく、あらゆる者が敵となり死を語る時でさえ、主の御言葉は私たちを支え励まし、命を与えます。

実に私たちは弱いですが、共にいてくださる主は強いのです。私たちの為に、既に勝利してくださった神の御言葉、主イエス様の前に、悪魔はもう成す術を持っていません。

「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある・・主の名を呼び求める者はだれでも救われる」。

 

 私たちが苦しみ、また誘惑を受ける時、それは自分の信仰の確かさを証明する時ではありません。それは、試練の時。神の御言葉に聞く時です。そしてそれは、神の恵みを知る時、イエス様の十字架の恵みにより頼む時です。

2025.2.5  

 

「キリストの体として共に歩む」

聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ12:12-27

「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(第一コリント12章27節)

 体の中で「この部分はどうでもいい」という部分はありません。たとえば、家の中で足の小指をどこかにぶつけたとします。あれは痛いですよね。小指は体全体の中では小さな部分ですが、それでも、ぶつけた時はすごく痛みを感じます。そのように、どんな小さな部分も体にとっては大切で、なくてはならないものです。いらない部分は一つもありません。イエス様は私たち一人一人をそのように見ておられる…ご自分の体の一部のように愛しておられるのです。

 その愛が現れたのが十字架です。イエス様は私たちを愛して、私たちの救いのために、十字架でご自分をささげてくださいました。イエス様が私たちを愛しておられるのは、私たちが何かができたからではありません。「能力」ではなく、あなたの「存在」が愛されているのです。教会は、「私も、あなたも、イエス様にこれほど愛されているのだ」ということをお互いに認め合う場所です。

 

 教会では月に1回「祈り会」をしています。私は祈り会でお互いに祈り合う時、「ああ、私たちは確かにキリストの体なんだ。ひとつに結ばれているんだ」と感じます。私たちがお互いのために祈る時、また、苦しんでいるだれかのそばにいる時、この言葉が実現するのです。

「ひとつの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、ひとつの部分が尊ばれれば(大切にされれば)、すべての部分が共に喜ぶ」(26節)

2025.1.16  

 

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」

聖書 ルカによる福音書 3:22

 この言葉は、神の御子であるイエス様が洗礼を受けられた時、聖霊が鳩のように降り、父なる神が御子に語られたものです。ここから、イエス様の公の宣教活動が始まって行きます。

 

 新しい年、また主と共に歩み出して行く中で、私たちも信仰生活の出発点である「洗礼の恵み」を、いつも繰り返し覚えたいと思います。

 

 なぜなら、私たちの日々の歩みを振り返ると、確かにイエス様にあって救いをいただき、洗礼の恵みによって神の子どもとされ、義と認められ、聖霊をいただき、主の愛の中を生かされている者であると同時に、全くの罪人で、神様の御心に従い得ない自分がいる事に気付かされるからです。

「神様の御心に適う者」とは言えないような姿があり、悲しみや不安の中、全てが暗闇としか映らない事もあるかもしれません。「神様に愛されている子」ではなかったのですかっと叫び、「もう歩けない」と座り込んでしまう事もあるでしょう。

マルティン・ルターが、私たちは「義人であり、同時に罪人である」と表現していますが、全くその通りです。

 

 しかしそのような私たちであるにも関わらず、神様はご自身の尽きることない憐れみと、その御愛によって、確かに義と認めてくださったという、いただいた洗礼の恵みに立ち帰り、いつも覚えたいのです。父なる神様はその大切な御子をお与えになったほどに、尚愛してくださっていると。

 

 イエス様は、クリスチャンの単なるモデルなのではなく、私たちの救い主です。

私たちは、主の名によって与えられた洗礼の恵みによって、確かに神様の子どもとされましたが、同時に主の重荷となるしかない者です。私たちの全てを主にお委ねすることでしか、主の御心に従って歩んでいく事も、立つ事もできない。それが「私」です。

けれども、それでいいのです。あなたが歩む人生を共にし、喜びや悲しみ、そして苦しみも共にして、あなたと共に最後まで歩む為に、イエス様はあなたが立つ、そのところに、最も低く深いところにまで、ご自身の光を届ける為に来てくださったのですから。

 

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。

あなたの今日の一歩を照らす、確かな御言葉の光です。

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