りんごの木
田畑淳牧師と川﨑かおり伝道師による日々の糧となる気付きや恵みをいただきます。どうぞお楽しみに!(月1回更新)
2026
2026.2.21
「みことばを聴き、主に従おう!」
「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」
(ヨハネによる福音書 10章27-28節)
イエス様はご自分を「羊飼い」に、イエス様を信じる私たちを「羊」にたとえて、こう言われました。
「私の羊は、私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う」
羊は自分の身を守るすべがなく、目も悪く、性格も臆病です。でも、耳はとても良く、自分を世話してくれる人の声をちゃんと聞いて覚えることができるそうです。羊飼いが自分の羊たちを呼んで、前に立って進んで行くと、羊たちは羊飼いの後について行くのです。
そのように私たちも、聖書を通してイエス様の言葉を聴いて、イエス様について行くのです。聖書の中で、イエス様は「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」「人に仕える者になりなさい」と言われました。イエス様がそう言われたのだから、私たちも互いを愛し、他の人々に仕えるという道を歩むのです。
私たちはイエス様を信じていても、いろいろな状況の中で恐れたり、迷ったり、信仰が揺れ動いたりします。しかし、そのような私たちの現実にもかかわらず、イエス様はこう言われるのです。
「彼ら(私の羊たち)は決して滅びず、だれも彼らを私の手から奪うことはできない」
イエス様の手。その手には、私たちの救いのために十字架につけられた時の釘の跡があります。それほどあなたを愛された手です。
あなたの過ちも、疑いも、弱さも、あなたをイエス様の手から引き離すことはできません。なぜなら、私たちの罪深さよりも、イエス様の愛と赦しのほうがもっと大きいからです。あなたはずっとイエス様の手の中にいるのです。羊飼いの手の中にいる子羊のように…。
私たちが弱くても、欠けだらけでも、自分の罪に悩んでも、自分が成長しないように思えても、イエス様のもとから迷い出ることがあっても、それでも、またイエス様に立ち帰って、イエス様について行きましょう。イエス様を信じ、祈り、みことばに導かれて生きていくのです。
2026.1.11
「近づき 近づく」
「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。」(エフェソの信徒への手紙 3章12節)
「救い主が生まれた」という知らせは、全ての人にもたらされた神様からの喜びの知らせです。しかもその救い主は、特別な人だけが来る事ができるような所でなく、誰もがそのままの姿で来る事のできる家畜小屋で生まれました。
それは、神さま自らが最も低い者となり、誰もがイエス様にある真の平和と愛、そして命をいただく事ができるようにと、イエス様は全ての人のもとに来てくださった救い主であるからです。異なるもの同士が主の前で一つとされ、また共に神の恵みに与かり、共に神を礼拝するところ「イエス様のもと」に、神様は全ての人を招いてくださっています。そこには何の隔たりもなく、主のもとに人々が近づくことを妨げるものは何一つありません。
ですが同じ知らせを聞いたみんなが、イエス様のもとに来る事はありませんでした。ヘロデ王やエルサレムの人々、律法学者や祭司長といった人々は、自分の内にある恐れや不安、常識や知識、今の自分の生活の安定といった思いが妨げとなり、御言葉が示す救い主のもとへと出かけて行きません。
それは私たちの内にも沸いてくる、イエス様のもとへ帰ることを妨げ、また御言葉が示す主のもとへ出かけて行くことを妨げる、自らの思いと似ていないでしょうか。主の元に帰り、出かけて行くことを妨げるのは、周りの状況や他の誰かでもなく、私。この世界を、私たち自身を喜びと不安に分け、愛と恐れに分け、平和と争いに分け、一致と分裂とに分けるのは、私自身ではないでしょうか。
約2000年前のクリスマス。神様はそんな私たちに真の平和と愛と、赦しと慰め、喜びと平安、そして和解と一致、命を与える為に、救い主イエス様をこの分断された世界に贈ってくださり、神様の方から私たちへと近づいてくださったのです。それは全ての人に届けられた真の光。その御言葉の光は今日もイエス様を指し示しています。一人一人が謙り、そして喜びを持って主を主として礼拝するところ、真の平和があるところです。
主にある、赦しと新しい命を受けるところに、愛と平和に生きるところに、喜びと和解、そして一致のあるところに、御言葉はいつも招いています。さぁ、あなたも来なさい。そして喜びと平安を持って行きなさいと。
