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りんごの木

田畑淳牧師と川﨑かおり伝道師による日々の糧となる気付きや恵みをいただきます。どうぞお楽しみに!(不定期更新)

2024

2024.11.12  

 

「献げられた全て」

聖書 マルコによる福音書 12:38〜44

「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」(マルコ12:43〜44)。

 

 このやもめは、どうして手の中にあった銅貨を1枚ではなく、2枚とも入れたのでしょう。2枚入れたところで、小さな献げものに変わりありません。それなら1枚でも良かったのでは?少しでも手元に残していても。でも、彼女は2枚目の銅貨もつかみ、それも手離してしまうのです。そんな彼女の姿に、心が震えます。

 旧約聖書に出てくるサレプタのやもめの話しや、孤児や寡婦に対する特別な神様の約束を、彼女は知っていたのかもしれません。(詩編10:14,17,18,68:6など) 

 

 彼女が信じて委ね献げるよりも前に、神様の約束がありました。必ずその御心を成してくださる方の約束があったからこそ、彼女は自らの全てを委ねる事ができたのでしょう。その約束通り、神の御心がなりますようにと。

 そんな彼女の姿。神様の約束を信じ、自分に頼るのではなく神様に信頼して、全てを委ね献げる姿に、イエス様の眼差しは向けられていました。そして「アーメン」と言われます。

 イエス様もまた、そのように生きられたからです。父なる神様の約束を最後まで信頼し、有り余るほどの祝福の中から一部ではなく、ご自身の全てを委ね、その命までも献げられました。それは神の御心がなされる為、私たちを贖い、罪を赦し、新しい命と豊かな恵みを私たちに与える為でした。

 

 それは、主が私たちに与えてくださった祝福の約束です。限りない愛をもって養い、守り、導き、助け、命を与え、満たし、溢れさせていてくださる方が、いつも共にいてくださるという約束です。この約束があるからこそ、私たちも明日を心配する必要がありません。

 主の恵みをいつも受け取り、そして私たちも心から感謝の内に主の御手に全てを委ね、お献げしたいと思います。それは神の御心が成される為。私たちだけの喜びにとどまらず、多くの実が結ばれていくために。

2024.10.15  

 

「自分を捨てて、ついて行く」

聖書 マルコによる福音書 8:27〜38

イエス様は人々にこう言われます。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」

「自分を捨てる」とは、「自分の思い、自分の願いが一番、大事だ」という考え方を捨てる、ということでしょう。まずイエス様ご自身がそうなさいました。イエス様は神に等しい方でありながら、「自分」に固執せず、自分を無にして、私たちの罪を背負って十字架にかかってくださったのです(フィリピ2:6~8)。

 

イエス様が自分を捨てて、十字架を背負われたのは、この私たちを愛されたからです。イエス様は「何としてでもあなたを罪と死から救いたい」と思って、そのためにご自分をささげてくださいました。「自分を捨て、自分の十字架を背負う」とは、こういうことです。だれかのために、愛をもって自分自身を与えることです。

 

イエス様は「私の後に従いたい者は…私に従いなさい」と言われました。「イエス様に従う」とは、イエス様のあとについて行くこと、後ろを歩いていくことです。私たちがだれかのために自分をささげる時、その私たちの前には、必ずイエス様がいてくださるのです。私たちのために十字架を背負われたイエス様、私たちのために、だれよりも大きな重荷を背負ってくださったイエス様が。

 

あなたが、だれかのために自分の力をささげる時、あなたは一人ではありません。その時こそ、イエス様が共におられます。疲れ果てる時も、何もできない時も、失敗する時もありますが、それでも、私たちはつまずきながらでも、一歩一歩、イエス様のあとについて行きましょう…私たちのことを決して見捨てないイエス様のあとを。

2024.9.10  

 

「みんな中から」

聖書 マルコによる福音書 7:15

「なぜ、あなたの弟子達は昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」。そうイエス様に尋ねた宗教指導者たちは言い伝えも守り、特に世俗に触れる事を汚れとし、自分の内にそれらが入ってこないようにと懸命に避けていました。

けれどもイエス様は?汚れを避けるどころか、むしろ近づき、その中に入って行かれました。そして傷ついた人、病に苦しんでいる人、罪人とよばれる人々との交わりをもたれました。その中には、自分は清いと思い込んでいた彼らもいました。なぜならイエス様は全ての人の心から出てくる全ての汚れを、ご自身の命をかけた、あの十字架によって清める為に来られたからです。

「人の心から悪い思いが出てくる。それらが人を汚す」。この問題を解決するために主は来られました。そして全ての人の救いの為に遣わされたこの方に、信仰によって結ばれる時、私たちは主にあって内から清められ、真の愛に生きる者へと変えられるのです。

 

私も心に湧く苦しみにもがいた時「主よ、私を憐れんでください」と祈る事しか出来ませんでしたが、そんな中「七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい」という御言葉が心に迫りました。「神様は私の罪も、七回どころか七の七十倍までも全てを赦してくださったんだ、後悔する思い、不安やこの罪悪感も」と心が震えました。「このような私もイエス様が赦してくださった」この事実が、私を中から癒し、全てを御手に委ねる事ができたのです。

 

そう、私たちができるのは自らを清める為に、汚れを避けて通る事でも、手を洗うように自ら汚れを取り除く事でもありません。私たちの内から日々湧いてくる汚れを認め、「主よ憐れんでください。私を罪から清めてください」と、いつもイエスさまに立ち返る事です。 

信仰をもって生きるという事は、私たちがいつも完璧に、何か立派に生きる事でも、人から褒められるような清い人間になる事でもありません。まず私たち自身がいつも主のみ言葉の前に砕かれ、このような心貧しい者をイエス様が罪を赦してくださり、ご自身の愛によって清い心を創造し、新しい命に生きるようにしてくださった、この恵みの内に生きる事です。

2024.8.18  

 

「自分の弱さの中でこそ」

聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 12 :2〜10

 伝道者パウロは何らかの病気で悩んでいたようです。しかも苦痛を伴う病気でした。彼はその痛みに耐えきれなくなり、「どうか癒してください」と祈りました。

 そんなパウロの心に、「私の恵みは、あなたに十分である」というイエス様の声が響いてきます。それは、言い換えれば「私があなたを愛している。私が一緒にいるよ」ということではないかと思います。

 パウロは問題の解決は得ることができませんでしたが、問題の中でも「自分は一人ではない」という恵みを頂いたのです。真の救いとは、問題の解決そのものよりも、どんな問題の中でも自分の存在を支えるよりどころがあることです。病気があっても、問題があっても、それでも「私は一人ではない」と言えること。これが、弱さの中にある時に、何よりも私たちを支える恵みではないでしょうか。

 

「力は弱さの中でこそ、十分に発揮される」とイエス様は言われます。私たちに力がなくても、そんな私たちを通してイエス様が働いてくださるのです。この約束があるから、私たちは自分の弱さを感じても絶望せず、その状況の中でできることを誠実に行うのです、「主よ、私を用いてください」と祈りつつ。

 

 あなたは強くなくてもいい、完璧でなくてもいいのです。弱さがあっていいのです。イエス様が、私たちを罪と死から救うために十字架にかかってくださったのは、イエス様が無力な私たちをそれでも愛してくださったからです。自分の弱さの中でこそ、このイエス様を見上げましょう。

2024.7.16  

 

「命をかけて伝えられたもの」

聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 4 :14〜18

『ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである』

(マルコによる福音書 6:20)

 

 自ら洗礼者ヨハネを殺した後もヘロデの心を捉え、事あるごとに触れていた言葉。それはヨハネの存在であり、彼が語った神の言葉でした。

 この「洗礼者ヨハネ、殺される」という悲惨な事実を伝える箇所に、一体神の御心がどこにあるのかと思わずにはいられません。しかしイエス様もまた、同じようでありました。
 この二人に共通しているのは、多くの者がその死に関わり、理不尽と思えるような最期を迎えなければならなかったという事だけでなく、まさに命懸けて、最後まで人々に神の御心を届け伝えたという事です。
そしてイエス様は、最後まで敵を愛し、命をかけて全ての者の救いを成し遂げてくださいました。ご自身の十字架と復活によって届けられる命の言葉が、人々の内に芽を出し、聖霊によって罪に気付かされ、人が悔い改める時、罪の赦しと永遠の命が確かに与えられる為です。そこには、命がけでその使命を成し遂げてくださった方の姿、神の約束の言葉に信頼して語り、神の時を待ち望んだ者の姿があります。

 

 実に、この世界に命懸けで届けられている言葉があります。その一つは主の十字架の言葉。全ての人に救いを与える命の言葉、福音です。そして、あの洗礼者ヨハネがそうであったように、命懸けで届けられている律法の言葉もあるように思います。
 その一つは、この世の中で理不尽に虐げられ、苦しめられている人々からの命の叫びです。それは私たちの心を叩く声であり、罪を指摘し、この世の愚かさを暴露します。しかしだからこそ同時にそれは私たちの心を砕き、悔い改めへと促し、主の福音へと帰らせる命がけの言葉です。
「主よ、私を憐れんでください」主の十字架を見上げ、そう祈る事しかできません。

 

 しかし、そのような罪人の頭であった者が、神様の一方的な憐れみの中で、イエス様の命を懸けた十字架による救いをいただいたのだという驚くべき事実をそこで知るのです。

 こうして、主の限りない憐れみと恵みを受けた者が、この世へと押し出されていきます。この主の愛もって、今度は愛する事を選び、共に生きる為。そして、このような私をも命をかけて救ってくださった方の限りない憐れみと愛を、この人生をかけ伝える為です。

2024.6.11  

 

「見えるものではなく、見えないものにこそ」

聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 4 :14〜18

『私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです』

(コリントの信徒への手紙Ⅱ 4:18)

 

私たちの目の前にある苦しみも、いつかは過ぎ去ります。しかし、イエス様が与えてくださる救いは、そして神様の愛は、永遠に続くのです。

「イエス様の十字架のゆえに、私たちが神様に赦され、この世にいる今も、この世を去ってからも、ずっと神様の愛の中で生きることができる」という救いの事実は、今は目で見ることはできません。しかし、聖書の言葉を通して「聴く」ことができます。また、この救いを一人一人が確かに頂くために、洗礼と聖餐があります。そこに示されている救いの恵みに目を向けることが「信仰」です。 

約500年前、グリューネヴァルトというドイツの画家が描いた「イーゼンハイムの祭壇画」という絵があります。この絵の中心には、十字架につけられたイエス様の見るも無残な姿が描かれています。その体はやせ細り、傷だらけで、血を流し、顔は苦痛でゆがんでいます。目を背けたくなるような痛々しさです。しかし、その十字架のイエス様を描いた祭壇画の裏側に、復活されたイエス様の絵があるのです。復活のイエス様は、太陽のように光り輝く姿で描かれています。

見るも無残な十字架の絵のすぐ裏に、復活の絵がある…そのように、私たちの苦しみや、悲しみや、死の「裏側」に、それでも決して消え去らない救いがあるのです。永遠に続く神の愛と、赦しと、新しい命があるのです。このことを信じる信仰が、あらゆる弱さの中で私たちを支えるのです。

2024.5.11  

 

「愛にとどまる」

『父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい・・・わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である』

(ヨハネによる福音書 15:9、12)

 

いつどんな時でも「互いに愛し合い、また必要なら自分の命を捨てる」。それはたとえクリスチャンであっても大変難しく感じます。「どうして真面目にやってきた自分が、この人の為に時間も、お金も、愛までも与えなくちゃならないのか」。「こうなったのは自業自得じゃないか」。「どうして私ばっかりしなくちゃならないのか」。そんな想いが心をかすめます。そして、本当に命までもとは言わなてくても「そんなの無理。私には出来ない」と早々に諦めたくなる自分も出てきます。

しかし、そのような私たちの心に「本当に、それで良いのか?」と、イエス様の十字架の愛は投げかけてくるのです。主の御言葉が心を叩くのです。「父がわたしを愛されたように、私もあなた方を愛してきた。私の愛にとどまりなさい」と。そして「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」と。

それは、自分だけがゴールに向かって進んで行く事でも、自分だけが豊かに生きる事でもありません。目の前で倒れ、苦しみ、飢え渇く友の傍に立ち止まり、与えられた恵みを分かち合い、共に生きる事です。それは、イエスさまがまずご自身の命をかけて、私たちにしてくださった事。そのような愛で、私たちは今日も愛されているのです。

勇気がいるでしょう。もぅいいじゃないかと思うでしょう。でもそんな時は、一度立ち止まり、このヨハネによる福音書15章1節からの言葉、そこにある主の御心をいつも思い出したいと思います。

大丈夫。私ができるかできないかでは無いのです。愛する事は、葡萄の木であるイエス様の御心であり、神の御心なのです。その実は、イエス様の愛に留まり、つながっているところに結ばれていくものなのです。そして、私たちが行って実を結び、その実が残るようにと、イエス様があなたを任命されたのですから。今日も、その主の愛に留まりましょう。そして今日も、愛する者へと押し出されて参りましょう。

2024.4.11  

 

「行き止まりの先にも道がある」マルコによる福音書15:42-16:7

『「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方(イエス様)は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる』」』

(マルコによる福音書 16:7)

 

イエス様は十字架につけられ、死んで、墓に葬られました。にもかかわらず、イエス様の歩みはそこで終わりませんでした。イエス様は復活し、ガリラヤ(弟子たちとイエス様が出会った場所)に進んでゆかれたのです。

十字架の死さえも、すべての終わりである「墓」さえも、イエス様にとっては「行き止まり」ではなかったのです。

イエス様の復活の知らせは、イエス様の弟子たちに伝えられました。この時、弟子たちは絶望のどん底にいました。彼らはイエス様が捕らえられた時、イエス様を見捨てて、逃げたのです。

ところが、そんな弟子たちにこう告げられます。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる」

これは「先に行って、待っているよ!もう一度、私について来なさい」という、イエス様から弟子たちへの伝言です。イエス様は弟子たちを見捨てず、もう一度、従うように招かれたのです。

私たちも道を誤り、だれかを傷つけ、神様に背き、信仰さえも見失います。その罪が自分にのしかかり、「自分はダメだ、もう前に進めない」と思うかもしれません。しかし、そのような行き止まりの先にも道があるのです。私たちのすべての罪を背負ってくださったイエス様のゆえに。

十字架の赦しがあるから、そして、復活されたイエス様が共におられるから、絶望も、過ちも、そして、死も、墓も、「行き止まり」ではありません。その先にもイエス様が招いてくださる道があるのです。

2024.3.12  

 

「ここに立つ」

『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る為である。』

(ヨハネによる福音書 3:16)

 

 ある牧師先生が、とても興味深い説教題を紹介してくださった事がありました。その説教題は「ろうかに立ってはいけません」というものでした。そうです、ろうかに・・・。でもそれは教室の外にあるような廊下ではありません。〜だろうか?の「ろうか」です。

 神さまは、イエス様の十字架を通して「あなたの罪は赦された」と言ってくださいました。けれども、サタンは尚私たちを誘惑し、また私たち自身の弱さのゆえに、自分の罪深さにばかり目を注ぎ、本当に私は赦されているのだ「ろうか」というところに、いつの間にか立ってしまっている事がないでしょうか。しかし、「ろうかに立ってはいけない」のです。

 

 み言葉が示す私たちが立つところ、それは、十字架の主を信じて見上げるところです。そこに、イエス様によって与えられた、全ての罪の赦しがあります。そこに、イエス様によって差し出された永遠の命があります。そしてそこに、神さまがその独り子をお与えになったほどに、あなたを愛して下さっているという真理があるのです。

 神さまはみ言葉を通して、いつも私たちが立つべきところへと招いて下さっています。そこは私たちの内にある全ての暗闇に、キリストの光が輝き続けているところです。

今日、あなたはどこに立っておられるでしょうか?

 

 「ろうか」に立つのではなく、神様が招いておられる、十字架の愛の内に立たせていただく時、私たちは初めて「私がここにおります!」と、真の喜びをもって主に応えることができます。神さまが一方的に与えて下さった、この恵みによって、今日も私たちは神様の御前に立ち、神に愛され、そして愛に生きる者として、キリストの命が与えられています。「わたしが今、ここにおります。私を遣わしてください」と、喜びと感謝をもって主に応え、イエス様と共に歩み出しましょう。

2024.2.13  

 

「信じて、ついて行く」

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

(マルコによる福音書 1:14〜20)

 

 先月、私が近所の梅林に行くと、すでに梅が咲き始めていました。「こんなに寒いのにもう咲いているんだ!」と驚きました。梅の花は冬の真っただ中で、「今は寒いけど、春は確かに近づいている」と私たちに教えてくれているようです。

 

 イエス様も「神の国は近づいた」と言われました。「今は暗闇に覆われたような世界だけど、そんな中でも神の国は近づいて来ている。神の救いの時は近づいている」と言われたのです。

 さらにイエス様は「悔い改めて福音(良い知らせ)を信じなさい」と言われます。イエス様が十字架で私たちの罪を背負ってくださったので、今や神様は私たちを赦し、受け入れてくださいます。この赦しがあるからこそ、私たちは安心して悔い改めることができるのです。イエス様のもとには限りのない赦しがあるのですから。

 この赦しの中で、私たちはイエス様と共に生きる道を歩み始めるのです。イエス様は、私たち一人一人にも「私について来なさい」と呼びかけておられます。

 それは、いつもうまくいくわけではありません。イエス様の弟子たちも、イエス様が十字架につけられる前夜、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。しかし、そんな弟子たちをイエス様はそれでも見捨てず、死から復活したのち、弟子たちを赦してくださいました。弟子たちはイエス様の愛と赦しの中で立ち上がって、もう一度、新たにイエス様に従う道を歩み出したのです。これが教会の始まりです。

 

 教会は完璧な人たちの集まりではありません。むしろ、失敗があっても、欠けだらけでも、それでもイエス様の愛と赦しの中で何度でも立ち上がって、イエス様について行く人々の集まりです。私たちも、どんなに迷っても、どんなにつまずいても、倒れても、またイエス様について行くことができる…イエス様が私たちを決して見捨てないからです。

2024.1.6  

 

「御言葉に立って」

再び心を励まし なお待ち望む。主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。あなたの真実はそれほど深い。(哀歌 3:21〜23)

 

2024年はどんな年になるだろう?色んな事があった昨年を振り返りつつも、希望を持って新年を迎えました。しかし元旦から続く能登半島での地震や、各地で起こった事故や火災など。多くの方が、このままどうなってしまうんだろう・・・と、心が恐れに震えたかもしません。今も大変な中におられる方々を思う時、神様からの慰めと必要な助けが届けられますようにと祈るばかりです。

 

2020年の元旦に新聞各紙に掲載されたある広告を思い出しました。そこには、当時幕内最小力士だった炎鵬関の写真と共に、こんな文章が書かれていました。

 

大逆転は起こりうる。

私は、その言葉を信じない。

どうせ奇跡なんて起こらない。

それでも人々は無責任に言うだろう。

小さなものでも大きな相手に立ち向かえ。

誰とも違う発想や工夫を駆使して闘え。

今こそ自分を貫くときだ。

しかし、そんな考えはばかげている。

勝ち目のない勝負はあきらめるのが賢明だ。

わたしはただ、為す術もなく押し込まれる。

土俵際、もはや絶対絶命。

 

ただ、その広告の最後には「さ、ひっくり返そう」と書かれていたのです。

同じ文章を上から下に普通に読んでみるのと、下から上に「一行ずつ」読んでみるのとでは、全然意味合いが変わってきます。

 

もしかしたら、人が苦しく困難な只中に居る時というのは上から下へと、いわゆる普通の読み方で物事を見、理解しているのかもしれません。

 

しかし同じ出来事でも、神さまは全然違うように見ておられるのかもしれない。そしてそのような苦しみと困難な只中にも、主なる神さまはいつも共にいてくださり、その慈しみと憐れみは決して絶えることも尽きることもない。変わりやすい人の言葉ではなく、決して変わらない神さまの言葉を信じるなら、大逆転が起こる。私はこの記事をそのように読みました。

 

新しい年も、変わらない神様の御言葉に立って、信じて歩んで行きましょう。神様からの深い慰めと平和が世界の隅々にまでゆきわたりますように。

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