りんごの木
田畑淳牧師と川﨑かおり伝道師による日々の糧となる気付きや恵みをいただきます。どうぞお楽しみに!(月1回更新)
2026
2026.5.16
「憐れみ深い主のもとへ」
心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい・・行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」
(ヨハネによる福音書 14:1、3)
イエス様を信じていても、私たちは色んな事で時に心を騒がせ、悲しみ、クヨクヨしたりして、一人では打ち負かされそうになり、立ち向かう勇気も出ず、誰かの支え、また慰められる事を必要とする者です。いえむしろ、与えられた信仰と日々内から湧いてくる不安や心配は、どこか私たちの心の中でいつも一緒にいて、全く相容れないものではなく、常に私たちはその間を行ったり来たりしているような者ではないでしょうか。神様を信じているのです。でも、不安になるのです。だから、共に祈ってくる仲間を必要とし、慰められ、希望が与えられ、気付かされる時、また不思議と信じて立ち上がる事ができます。
そんな私たちにイエス様は今日も「わたしを信じなさい」と語り、「わたしがあなたを迎え、わたしがいるところに、あなたもいることになる」と約束してくださっています。
それは、たとえ私たちが主を見失っても。どこに行けば良いの分からなくなっても。そしてたとえ、私たち自ら主に背を向け逃げ出したとしてもです。主の約束、主の恵みはいつも追いかけて来ます。「命のある限り、恵みと慈しみはいつも私を追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこに留まるであろう(詩編23)」。現に、イエス様が弟子達に14章の言葉を語られた時も、その夜に彼らは主を見捨てるのです。しかし、そのような彼らにさえ約束して下さいました。それは、主が全ての人、私の為に支払ってくださった十字架での代償があったからです。
伝道者の書4:12に「一人では打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つよりの糸は簡単には切れない」とあります。三つよりの糸。それは二つの糸が、一本の芯となる糸に巻き付いている糸の事です。
心騒ぐ時、ひとりではしっかりと立つことができなくても、誰かが一緒にいて支えてくれると力が出てきます。そしてそれ以上に、私たちの中心に、主が今日も共にいて下さり、語っていてくださいます。「わたしを信じなさい」と。だからこそ私たちは、今日も信仰を新たにされ、主が与えて下さった友、愛する方々と共に主を信じて立ちあがり、共に歩んでいく事ができます。主が招き導き、迎え入れてくださる、喜びと平和が満ちる主のもとに、いつも留まりながら。
2026.4.10
「復活 -絶望から希望へ-」
(ヨハネによる福音書19:38-20:18)
イースターおめでとうございます。イースターは、イエス様が復活し、今も私たちと共にいてくださることを喜ぶ時です。
ヨハネ20章1節によると、イエス様の復活は「朝早く、まだ暗いうちに」起こりました。この「まだ暗いうちに」は、聖書が書かれた言葉では「まだ闇がある間に」という表現です。日が上る前、まだ世界を闇が包んでいる時、その闇の中で希望の光が輝き始めた!絶望の暗闇の中で、希望の光が生まれたのです。
イエス様の十字架の死は、イエス様に従ってきた弟子たちにとって、それまで抱いてきた希望が打ち砕かれた絶望の出来事でした。弟子たちは「もうダメだ、すべてが終わった」と思っていました。
イエス様に従ってきた女性の弟子、マグダラのマリアもそうでした。彼女はイエス様の墓が空っぽになったのを見て、墓の前に立ち尽くして泣きました。
「後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった」(ヨハネ20章14節)
マリアには分からなかったけれど、イエス様は確かにそこにおられたのです。私たちが希望を失い、立ち尽くしてしまう時、泣くしかない時も、復活されたイエス様は共におられるのです。
泣いていたマリアに、イエス様は「マリア!」と名を呼ばれました。イエス様は今日、あなたの名前も呼ばれます。イエス様の限りなく優しい、温かい声が、あなたの名前を呼んでいるのを想像してみてください。
イエス様はあなたの名を呼んでこう言われます。「私はここにいる。あなたには分からなくても、あなたのそばにいる」と。
復活されたイエス様は、弟子たちのことを「私の兄弟たち」と呼ばれました(17節)。イエス様を見捨てて逃げた弟子たちを、イエス様は赦し、「あなたは私の兄弟だ、あなたも神様の子どもだ」と言われたのです。
あなたのこともイエス様は決して見捨てません。あなたのために命をささげるほど、イエス様はあなたを愛しておられるからです。このイエス様こそ、暗闇の中でも輝く希望の光です。
「まだ闇がある間に」、その闇の中で復活されたイエス様が、どんな暗闇の中でもあなたと共におられます。
2026.3.20
「御子によって救われるため」
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」
(ヨハネによる福音書 3章16-17節)
イエス様は私たちを裁くためではなく、私たちを救うために来てくださいました。「御子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得る為」に。
ローマ書4:5には「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」とあります。
「不信心な者を義とされる方を信じる人」。とても面白い言い方です。もう少し砕いて言いえば「神様を信じない者を、義とされる方を信じる人」。「信じていないのに、信じる人」でしょうか。でもそれはまさに、私たちの事ではないでしょうか?信じていると言いながら信じきれていない「不信心な者」とは、この私。日々の私のことです。
しかし「この不信心な者をも義とされる方を」今日もただ信じることが許されています。この不信心な私たちのために、イエス様が十字架にかけられたと。こんな私に救いの恵みを与えてくださったとを。
神さまは、律法の前に「ダメな私」と、うな垂れる者に向かって、イエス様にある救い、福音を通して「あなたはそれで良い」と言ってくださるのです。
「このような不信心な私を救うためにイエス様は来られた」この恵みをいつも聞き、知っていながらも、つい「ねばならぬ」に立ち、ただ「信じる」ことができず「こんな私ではダメ」と疑いたくなるのが私たちです。だからこそいつも神様は、主の御言葉を聴くところへと招いてくださっています。
実に律法の役割の一つは、私たちを福音へと追いやることです。そこでダメだと突きつけられ、もはや顔を上げられないような私の最も低いところ、最も暗いところに、イエス様の十字架による赦しは今日も輝いています。
私たちがいつも立つべきところは、私の罪のために十字架にかかられた主の前です。
主は「私の罪」によって殺され、私たちの代わりに神の怒りを受けられました。それは私たちの全ての罪を赦すため。そして、命の代価をもって贖い、私たちに新しい命を与え、真に生きる者とするためイエス様は復活して下さいました。それは今日も、あなたと共に生きる為です。この喜びの知らせを知るからこそ、私たちは今日もイエスの「御後」に従うことができるのです。主の十字架と復活の御言葉の「後」に、従い歩む幸いがあります。
2026.2.21
「みことばを聴き、主に従おう!」
「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」
(ヨハネによる福音書 10章27-28節)
イエス様はご自分を「羊飼い」に、イエス様を信じる私たちを「羊」にたとえて、こう言われました。
「私の羊は、私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う」
羊は自分の身を守るすべがなく、目も悪く、性格も臆病です。でも、耳はとても良く、自分を世話してくれる人の声をちゃんと聞いて覚えることができるそうです。羊飼いが自分の羊たちを呼んで、前に立って進んで行くと、羊たちは羊飼いの後について行くのです。
そのように私たちも、聖書を通してイエス様の言葉を聴いて、イエス様について行くのです。聖書の中で、イエス様は「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」「人に仕える者になりなさい」と言われました。イエス様がそう言われたのだから、私たちも互いを愛し、他の人々に仕えるという道を歩むのです。
私たちはイエス様を信じていても、いろいろな状況の中で恐れたり、迷ったり、信仰が揺れ動いたりします。しかし、そのような私たちの現実にもかかわらず、イエス様はこう言われるのです。
「彼ら(私の羊たち)は決して滅びず、だれも彼らを私の手から奪うことはできない」
イエス様の手。その手には、私たちの救いのために十字架につけられた時の釘の跡があります。それほどあなたを愛された手です。
あなたの過ちも、疑いも、弱さも、あなたをイエス様の手から引き離すことはできません。なぜなら、私たちの罪深さよりも、イエス様の愛と赦しのほうがもっと大きいからです。あなたはずっとイエス様の手の中にいるのです。羊飼いの手の中にいる子羊のように…。
私たちが弱くても、欠けだらけでも、自分の罪に悩んでも、自分が成長しないように思えても、イエス様のもとから迷い出ることがあっても、それでも、またイエス様に立ち帰って、イエス様について行きましょう。イエス様を信じ、祈り、みことばに導かれて生きていくのです。
2026.1.11
「近づき 近づく」
「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。」(エフェソの信徒への手紙 3章12節)
「救い主が生まれた」という知らせは、全ての人にもたらされた神様からの喜びの知らせです。しかもその救い主は、特別な人だけが来る事ができるような所でなく、誰もがそのままの姿で来る事のできる家畜小屋で生まれました。
それは、神さま自らが最も低い者となり、誰もがイエス様にある真の平和と愛、そして命をいただく事ができるようにと、イエス様は全ての人のもとに来てくださった救い主であるからです。異なるもの同士が主の前で一つとされ、また共に神の恵みに与かり、共に神を礼拝するところ「イエス様のもと」に、神様は全ての人を招いてくださっています。そこには何の隔たりもなく、主のもとに人々が近づくことを妨げるものは何一つありません。
ですが同じ知らせを聞いたみんなが、イエス様のもとに来る事はありませんでした。ヘロデ王やエルサレムの人々、律法学者や祭司長といった人々は、自分の内にある恐れや不安、常識や知識、今の自分の生活の安定といった思いが妨げとなり、御言葉が示す救い主のもとへと出かけて行きません。
それは私たちの内にも沸いてくる、イエス様のもとへ帰ることを妨げ、また御言葉が示す主のもとへ出かけて行くことを妨げる、自らの思いと似ていないでしょうか。主の元に帰り、出かけて行くことを妨げるのは、周りの状況や他の誰かでもなく、私。この世界を、私たち自身を喜びと不安に分け、愛と恐れに分け、平和と争いに分け、一致と分裂とに分けるのは、私自身ではないでしょうか。
約2000年前のクリスマス。神様はそんな私たちに真の平和と愛と、赦しと慰め、喜びと平安、そして和解と一致、命を与える為に、救い主イエス様をこの分断された世界に贈ってくださり、神様の方から私たちへと近づいてくださったのです。それは全ての人に届けられた真の光。その御言葉の光は今日もイエス様を指し示しています。一人一人が謙り、そして喜びを持って主を主として礼拝するところ、真の平和があるところです。
主にある、赦しと新しい命を受けるところに、愛と平和に生きるところに、喜びと和解、そして一致のあるところに、御言葉はいつも招いています。さぁ、あなたも来なさい。そして喜びと平安を持って行きなさいと。
