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りんごの木

田畑淳牧師と川﨑かおり伝道師による日々の糧となる気付きや恵みをいただきます。どうぞお楽しみに!(不定期更新)

2024

2024.4.11  

 

「行き止まりの先にも道がある」マルコによる福音書15:42-16:7

『「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方(イエス様)は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる』」』

(マルコによる福音書 16:7)

 

イエス様は十字架につけられ、死んで、墓に葬られました。にもかかわらず、イエス様の歩みはそこで終わりませんでした。イエス様は復活し、ガリラヤ(弟子たちとイエス様が出会った場所)に進んでゆかれたのです。

十字架の死さえも、すべての終わりである「墓」さえも、イエス様にとっては「行き止まり」ではなかったのです。

イエス様の復活の知らせは、イエス様の弟子たちに伝えられました。この時、弟子たちは絶望のどん底にいました。彼らはイエス様が捕らえられた時、イエス様を見捨てて、逃げたのです。

ところが、そんな弟子たちにこう告げられます。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる」

これは「先に行って、待っているよ!もう一度、私について来なさい」という、イエス様から弟子たちへの伝言です。イエス様は弟子たちを見捨てず、もう一度、従うように招かれたのです。

私たちも道を誤り、だれかを傷つけ、神様に背き、信仰さえも見失います。その罪が自分にのしかかり、「自分はダメだ、もう前に進めない」と思うかもしれません。しかし、そのような行き止まりの先にも道があるのです。私たちのすべての罪を背負ってくださったイエス様のゆえに。

十字架の赦しがあるから、そして、復活されたイエス様が共におられるから、絶望も、過ちも、そして、死も、墓も、「行き止まり」ではありません。その先にもイエス様が招いてくださる道があるのです。

2024.3.12  

 

「ここに立つ」

『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る為である。』

(ヨハネによる福音書 3:16)

 

 ある牧師先生が、とても興味深い説教題を紹介してくださった事がありました。その説教題は「ろうかに立ってはいけません」というものでした。そうです、ろうかに・・・。でもそれは教室の外にあるような廊下ではありません。〜だろうか?の「ろうか」です。

 神さまは、イエス様の十字架を通して「あなたの罪は赦された」と言ってくださいました。けれども、サタンは尚私たちを誘惑し、また私たち自身の弱さのゆえに、自分の罪深さにばかり目を注ぎ、本当に私は赦されているのだ「ろうか」というところに、いつの間にか立ってしまっている事がないでしょうか。しかし、「ろうかに立ってはいけない」のです。

 

 み言葉が示す私たちが立つところ、それは、十字架の主を信じて見上げるところです。そこに、イエス様によって与えられた、全ての罪の赦しがあります。そこに、イエス様によって差し出された永遠の命があります。そしてそこに、神さまがその独り子をお与えになったほどに、あなたを愛して下さっているという真理があるのです。

 神さまはみ言葉を通して、いつも私たちが立つべきところへと招いて下さっています。そこは私たちの内にある全ての暗闇に、キリストの光が輝き続けているところです。

今日、あなたはどこに立っておられるでしょうか?

 

 「ろうか」に立つのではなく、神様が招いておられる、十字架の愛の内に立たせていただく時、私たちは初めて「私がここにおります!」と、真の喜びをもって主に応えることができます。神さまが一方的に与えて下さった、この恵みによって、今日も私たちは神様の御前に立ち、神に愛され、そして愛に生きる者として、キリストの命が与えられています。「わたしが今、ここにおります。私を遣わしてください」と、喜びと感謝をもって主に応え、イエス様と共に歩み出しましょう。

2024.2.13  

 

「信じて、ついて行く」

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

(マルコによる福音書 1:14〜20)

 

 先月、私が近所の梅林に行くと、すでに梅が咲き始めていました。「こんなに寒いのにもう咲いているんだ!」と驚きました。梅の花は冬の真っただ中で、「今は寒いけど、春は確かに近づいている」と私たちに教えてくれているようです。

 

 イエス様も「神の国は近づいた」と言われました。「今は暗闇に覆われたような世界だけど、そんな中でも神の国は近づいて来ている。神の救いの時は近づいている」と言われたのです。

 さらにイエス様は「悔い改めて福音(良い知らせ)を信じなさい」と言われます。イエス様が十字架で私たちの罪を背負ってくださったので、今や神様は私たちを赦し、受け入れてくださいます。この赦しがあるからこそ、私たちは安心して悔い改めることができるのです。イエス様のもとには限りのない赦しがあるのですから。

 この赦しの中で、私たちはイエス様と共に生きる道を歩み始めるのです。イエス様は、私たち一人一人にも「私について来なさい」と呼びかけておられます。

 それは、いつもうまくいくわけではありません。イエス様の弟子たちも、イエス様が十字架につけられる前夜、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。しかし、そんな弟子たちをイエス様はそれでも見捨てず、死から復活したのち、弟子たちを赦してくださいました。弟子たちはイエス様の愛と赦しの中で立ち上がって、もう一度、新たにイエス様に従う道を歩み出したのです。これが教会の始まりです。

 

 教会は完璧な人たちの集まりではありません。むしろ、失敗があっても、欠けだらけでも、それでもイエス様の愛と赦しの中で何度でも立ち上がって、イエス様について行く人々の集まりです。私たちも、どんなに迷っても、どんなにつまずいても、倒れても、またイエス様について行くことができる…イエス様が私たちを決して見捨てないからです。

2024.1.6  

 

「御言葉に立って」

再び心を励まし なお待ち望む。主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。あなたの真実はそれほど深い。(哀歌 3:21〜23)

 

2024年はどんな年になるだろう?色んな事があった昨年を振り返りつつも、希望を持って新年を迎えました。しかし元旦から続く能登半島での地震や、各地で起こった事故や火災など。多くの方が、このままどうなってしまうんだろう・・・と、心が恐れに震えたかもしません。今も大変な中におられる方々を思う時、神様からの慰めと必要な助けが届けられますようにと祈るばかりです。

 

2020年の元旦に新聞各紙に掲載されたある広告を思い出しました。そこには、当時幕内最小力士だった炎鵬関の写真と共に、こんな文章が書かれていました。

 

大逆転は起こりうる。

私は、その言葉を信じない。

どうせ奇跡なんて起こらない。

それでも人々は無責任に言うだろう。

小さなものでも大きな相手に立ち向かえ。

誰とも違う発想や工夫を駆使して闘え。

今こそ自分を貫くときだ。

しかし、そんな考えはばかげている。

勝ち目のない勝負はあきらめるのが賢明だ。

わたしはただ、為す術もなく押し込まれる。

土俵際、もはや絶対絶命。

 

ただ、その広告の最後には「さ、ひっくり返そう」と書かれていたのです。

同じ文章を上から下に普通に読んでみるのと、下から上に「一行ずつ」読んでみるのとでは、全然意味合いが変わってきます。

 

もしかしたら、人が苦しく困難な只中に居る時というのは上から下へと、いわゆる普通の読み方で物事を見、理解しているのかもしれません。

 

しかし同じ出来事でも、神さまは全然違うように見ておられるのかもしれない。そしてそのような苦しみと困難な只中にも、主なる神さまはいつも共にいてくださり、その慈しみと憐れみは決して絶えることも尽きることもない。変わりやすい人の言葉ではなく、決して変わらない神さまの言葉を信じるなら、大逆転が起こる。私はこの記事をそのように読みました。

 

新しい年も、変わらない神様の御言葉に立って、信じて歩んで行きましょう。神様からの深い慰めと平和が世界の隅々にまでゆきわたりますように。

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