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りんごの木

田畑淳牧師と川﨑かおり伝道師による日々の糧となる気付きや恵みをいただきます。どうぞお楽しみに!(不定期更新)

2025

2025.6.14  

 

「主イエスが与えてくださる平安」 

聖書 ヨハネによる福音書 14:23-29

 イエス様は言われました。「私は、平和(平安)をあなたがたに残し、私の平和(平安)を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14章27節)

 

 イエス様の平安とは、「私はひとりではない。父なる神様が共にいてくださる」という安心感だったと思います(ヨハネ16章32節)。このような平安・安心を、イエス様はご自分を信じる者にも与えると約束されたのです。

 

 他のものを使っても一時的に心が安らぐことはあるでしょう。おいしいものを食べたり、お風呂に入ったり、自然を眺めたりすることで私たちはホッとします。しかし、それらは、私たちの存在を根底から支えるものにはなりません。

 

 私たちの罪を背負って十字架にかかってくださったイエス様のおかげで、私たちは神様に赦され、受け入れられています。多くの欠けがあり、弱さがあり、失敗もある私たちが、それでも神様に愛されていて、このような私たちであるにもかかわらず、神様が共にいてくださるのです。あなたはひとりではありません。このことを信じる時、私たちの心は本当の安らぎを得るのです。

 

 イエス様は、「私の平和(平安)を与える」と言った後で「心を騒がせるな。おびえるな」と言われました。恐れに陥りやすい私たちにイエス様は今日、言われるのです。「私の平安を与えるから、心を騒がせるな。おびえるな」と。

 

 この言葉は「絶対に恐れてはならない!」という厳しい命令ではありません。むしろ、「私がいるから大丈夫だよ」という励ましだと思うのです。イエス様は私たちに言われるのです、「大丈夫、恐れなくていい。私が一緒にいるから」と。

 

 心が騒ぐ時、不安な時、心に安らぎがない時、思い出しましょう、「あなたを見捨てず、あなたをどこまでも愛してくださる方が、どんな時も、何があっても、必ず共にいる。あなたはひとりではない」ということを。

2025.5.14  

 

わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従

う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手

から奪うことはできない」 

聖書 ヨハネによる福音書 10:27〜28

 「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」とイエス様は言われます。でも、私たちの日常生活を振り返る時、果たしていつもちゃんと、主の御声を聞き分けられているのか?そんな不安を抱く事があるかもしれません。

 でも神様は今日も、確かにあなたを招き御言葉を聞かせ、与えられた信仰によって「主イエス様が私たちの救い主である」という一番大切なことを教えてくださっています。誰も、何もかも分かったから洗礼を受けたのでも、何もかも理解しているから教会に来ているのでもありません。むしろ分からない事の方が多くあります。けれども、私たちの罪のために十字架にかかり死なれた主イエス様が復活され、今も生きて、私たち一人一人の人生の中で御言葉をもって出会っていてくださり、今日も「主が主である」という一番大切な事を教えてくださっています。この主の御言葉に聞き従う時、私たちは与えられた恵みとその愛の深さを、ますます知るようになるのです。

 

 イエス様は「わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」と言われました。それは、私たちが主を知る以上に、こんな私たちを主がよく知っていてくださっているという大きな慰めです。

 どれだけイエス様を信じ歩んでいても、羊たちを惑わし奪い、追い散らすような盗人や狼がやって来ます。しかしそれでも、ただ主の御声に聞き従う者に「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、誰も彼らをわたしの手から奪うことは出来ない」と言われるのです。

 どうして、誰もイエス様から羊を奪えないのでしょう?それは、神さまご自身が命をかけて、あなたを最後まで守られるからです。全てのものにまさって、神が愛されている一人一人なのです。主イエス様をこの世に与えられるほどの父なる神様の愛が、羊を、あなたを守り抜かれます。そして父なる神様と1つである主は、今日もご自身の命をかけてあなたを守り、その限りない愛をもって語りかけ、一人一人の名を呼んでいてくださいます。

その主の御声に今日も聞き、安心して従いましょう。

2025.4.20  

 

「生きるよりどころ 

聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 15:1~10

 イエス様の十字架と復活から約25年後、伝道者パウロはこう書きました。

「兄弟たち、私があなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度、知らせます。これは、あなたがたが…生活のよりどころとしている福音にほかなりません」(第一コリント15章1節)

福音は、私たちの生きるよりどころです。「いろんなことがあっても、それでも私は生きることができる」と言える、そのために福音があるのです。

 

 その福音とは、「キリストが…私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、…三日目に復活したこと」(3~4節)です。私たちが神の愛と赦しの中でいつまでも生きることができるように、イエス様は私たちの罪を背負って十字架にかかってくださいました。4節でイエス様が「復活した」とありますが、この「復活した」は、もとの言葉では「復活して今も生きている」という意味です。イエス様が今も生きておられるからこそ、私たちも救われるのです。

さらにパウロはこう書いています。「(復活した主イエスは)私にも現れました。私は、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。(しかし、)神の恵みによって、今日(こんにち)の私があるのです」(8~10節)

 

パウロは自分の過去を恥じ、後悔しつつも、同時に「イエス様はこんな私のことも救ってくださった、赦しを与えてくださった!今の私があるのは全部、神の恵みのおかげだ」と感動していたのです。パウロにとっても、福音は「生活のよりどころ」(1節)だったのです。

 

 私たちも、小さな者であっても、足りない者であっても、自分の無力さを感じても、過去に取り返しのつかない過ちがあったとしても、それでも、今日、生きることができる…なぜなら、このような私たちであるにもかかわらず、私たちはイエス様に愛されているから、神の恵みが与えられているからです。これが私たちの生きるよりどころ、何があっても揺れ動かないよりどころです。

2025.3.15  

 

「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある・・・

主の名を呼び求める者はだれでも救われる」 

聖書 ローマ書 10章8節,13節

 空腹を覚えられた神の御子を、悪魔は誘惑し神から引き離そうと試みましたが、イエス様は御言葉を心に留め、これを神様が与えられた試練として受け取り、むしろ神様への全き信頼、その信仰を告白する機会とされました。

 

 私たちが経験する様々な誘惑も、神様は試練として用いられます。私たちはそこで自分の無力さ、罪深さが明らかになり、心身ともに揺さぶられてしまいます。私たち自身は誘惑に弱いばかりか、自らの力で対抗する事もできず、神から引き離そうとする力に負けるばかりで、できる事なら近づきたくも、また一刻も早く逃げ出したいと思うものです。

 

 しかし、実にその全ても、神様の知らないところで起こっているのではなく、また決して、神様は私たちから遠ざかり無関心でおられるのでもありません。

むしろ、その只中に共におられ、共に苦しみ、共に泣き、それでも主である私は、あなたを助け、最後まで守り導き救い出すと、揺るがない御言葉の約束をもって支えていてくださいます。Ⅰコリント10:13に「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」とあります。御言葉に聞き、神様から試練として受け取る時、そこには必ず逃れの道があると知ります。それは主イエス様という真の道です。

 

 聖霊は、いつも御言葉を通して主の十字架の恵みを示しておられます。私たちの為に命を捧げ、そしてすでに勝利し、全ての罪を赦してくださった方が、今日も共にいてくださると。たとえ私たちをとりまく、あらゆる者が敵となり死を語る時でさえ、主の御言葉は私たちを支え励まし、命を与えます。

実に私たちは弱いですが、共にいてくださる主は強いのです。私たちの為に、既に勝利してくださった神の御言葉、主イエス様の前に、悪魔はもう成す術を持っていません。

「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある・・主の名を呼び求める者はだれでも救われる」。

 

 私たちが苦しみ、また誘惑を受ける時、それは自分の信仰の確かさを証明する時ではありません。それは、試練の時。神の御言葉に聞く時です。そしてそれは、神の恵みを知る時、イエス様の十字架の恵みにより頼む時です。

2025.2.5  

 

「キリストの体として共に歩む」

聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ12:12-27

「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(第一コリント12章27節)

 体の中で「この部分はどうでもいい」という部分はありません。たとえば、家の中で足の小指をどこかにぶつけたとします。あれは痛いですよね。小指は体全体の中では小さな部分ですが、それでも、ぶつけた時はすごく痛みを感じます。そのように、どんな小さな部分も体にとっては大切で、なくてはならないものです。いらない部分は一つもありません。イエス様は私たち一人一人をそのように見ておられる…ご自分の体の一部のように愛しておられるのです。

 その愛が現れたのが十字架です。イエス様は私たちを愛して、私たちの救いのために、十字架でご自分をささげてくださいました。イエス様が私たちを愛しておられるのは、私たちが何かができたからではありません。「能力」ではなく、あなたの「存在」が愛されているのです。教会は、「私も、あなたも、イエス様にこれほど愛されているのだ」ということをお互いに認め合う場所です。

 

 教会では月に1回「祈り会」をしています。私は祈り会でお互いに祈り合う時、「ああ、私たちは確かにキリストの体なんだ。ひとつに結ばれているんだ」と感じます。私たちがお互いのために祈る時、また、苦しんでいるだれかのそばにいる時、この言葉が実現するのです。

「ひとつの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、ひとつの部分が尊ばれれば(大切にされれば)、すべての部分が共に喜ぶ」(26節)

2025.1.16  

 

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」

聖書 ルカによる福音書 3:22

 この言葉は、神の御子であるイエス様が洗礼を受けられた時、聖霊が鳩のように降り、父なる神が御子に語られたものです。ここから、イエス様の公の宣教活動が始まって行きます。

 

 新しい年、また主と共に歩み出して行く中で、私たちも信仰生活の出発点である「洗礼の恵み」を、いつも繰り返し覚えたいと思います。

 

 なぜなら、私たちの日々の歩みを振り返ると、確かにイエス様にあって救いをいただき、洗礼の恵みによって神の子どもとされ、義と認められ、聖霊をいただき、主の愛の中を生かされている者であると同時に、全くの罪人で、神様の御心に従い得ない自分がいる事に気付かされるからです。

「神様の御心に適う者」とは言えないような姿があり、悲しみや不安の中、全てが暗闇としか映らない事もあるかもしれません。「神様に愛されている子」ではなかったのですかっと叫び、「もう歩けない」と座り込んでしまう事もあるでしょう。

マルティン・ルターが、私たちは「義人であり、同時に罪人である」と表現していますが、全くその通りです。

 

 しかしそのような私たちであるにも関わらず、神様はご自身の尽きることない憐れみと、その御愛によって、確かに義と認めてくださったという、いただいた洗礼の恵みに立ち帰り、いつも覚えたいのです。父なる神様はその大切な御子をお与えになったほどに、尚愛してくださっていると。

 

 イエス様は、クリスチャンの単なるモデルなのではなく、私たちの救い主です。

私たちは、主の名によって与えられた洗礼の恵みによって、確かに神様の子どもとされましたが、同時に主の重荷となるしかない者です。私たちの全てを主にお委ねすることでしか、主の御心に従って歩んでいく事も、立つ事もできない。それが「私」です。

けれども、それでいいのです。あなたが歩む人生を共にし、喜びや悲しみ、そして苦しみも共にして、あなたと共に最後まで歩む為に、イエス様はあなたが立つ、そのところに、最も低く深いところにまで、ご自身の光を届ける為に来てくださったのですから。

 

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。

あなたの今日の一歩を照らす、確かな御言葉の光です。

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