りんごの木
田畑淳牧師と川﨑かおり伝道師による日々の糧となる気付きや恵みをいただきます。どうぞお楽しみに!
(不定期更新)
2023.1〜
2023.12.8
「闇の中でも消えない光」 ヨハネによる福音書1:1~9
今年も皆様とイエス様の誕生をお祝いできることを嬉しく思います。ぜひ12月24日のクリスマス礼拝にお越しください。
ヨハネによる福音書1章9節では、イエス様の誕生についてこう語られています。「その光はまことの光で、世に来て、すべての人を照らす」
私たちは暗闇のような世界に住んでいます。私たちはその中でさまよい、歩むべき道を誤ったり、本当の神様ではないものに依存したりするのです。そのような私たちの暗闇の中に、イエス様という「光」が来たのです。
「光は、暗闇の中で輝いている。暗闇は、光を理解しなかった」(5節)
「暗闇は光を理解しなかった」は、聖書が書かれた言葉では「暗闇は、光を掴(つか)めなかった」と訳すこともできます。「闇が光を掴(つか)む」とは「光が消える」ということです。
私は5節をこう言い換えてもいいと思います。「光は、闇の中で輝いている。闇は、その光を消すことができなかった」
どんな暗闇にもかき消されることのない光が私たちに与えられたのです。それがイエス様です。罪の暗闇の中でも、絶望の暗闇の中でも、消えることのない光である方があなたと共におられます。あなたに限りのない赦しを、神様の愛を与えてくださいます。
2010年にチリの鉱山で落盤事故があり、大勢の作業員が地下に閉じ込められました。事故から69日後、作業員は全員、地上に引き上げられて助かりました。救出された作業員の一人はこう語りました。「坑道がふさがってから地上と連絡がとれるまで17日かかった。その17日間、私たちは真っ暗闇の中で死を待つだけだった」
「真っ暗闇の中で、死を待つだけ」…そのような所から私たちを引き上げるために、イエス様が来られました。私たちの人生は、ただ死を待つだけのものではないのです。どんな闇の中でも消えない光、イエス様が共にいるのですから。
2023.11.16
「本当の教師は一人」 マタイによる福音書 23:1〜12
今日の福音書には、イエス様が当時の宗教指導者達を公衆の面前で厳しく非難された事が記されていました。しかしここでイエス様は、ただスキャンダラスに彼らの偽善的な姿を批判したのでも、虐げられた人々の代弁者となって声を上げ、支持を得ようとされたのでもありません。あくまでも彼らは高ぶる者の一つの代表に過ぎませんでした。ただこのような偽善者の姿を通して、イエス様は聞く者にキリスト者としての真の姿を教えられました。そしてそれを教えてくれる教師はただ一人、キリストご自身であると。
語る言葉もそれに伴う行動も、何一つ偽りのない真の教師。人を比較し順位をつけることなく、かえって自らを最も低い者とし、全ての人に仕え、全てを私たちの為に献げ尽くしてくださった方。人の肩に背負いきれない重荷を乗せるのではなく、ご自身の肩に全ての人の罪を背負い、十字架へと進まれた方。世界には素晴らしく尊敬せずにいられない人々が沢山います。しかしこのような方は一人だけです。最も高い所におられ、全ての人から賞賛と尊敬を受けるに値する方であったのに、最も低い者となり全ての人に仕え、ご自分が豊かになるためでなく、私たちが豊かに生きるために、全てを与えてくださった神の御子。それは主イエス・キリストお一人です。イエス様は「あなたがたのうちで一番偉い人は、仕える者になりなさい」と言われますが、誰が一番偉いかここで教えてくださっています。それは全ての人に仕えてくださった主です。全ての人の救い主であり、真の教師です。
この主の前に立つ時に私たちは初めて、そこには何の順位もない「同じ主に愛され、罪赦された者」として、互いを兄弟姉妹と呼び合う事ができるのです。
このイエス様との出会いが、私たちの生き方までも変えます。人の言葉はどれほど素晴らしく賢いものであっても、その人を根底から変える事はできません。しかし神の言葉が、信じる者の中に生きて働く時、その人を根底から変える力があるのです。その生き方は、イエス様がされたように、神を愛し隣人を愛する生き方です。自分が豊かになる為ではなく、相手が豊かに生きる為、喜びをもって仕え、自らを与える生き方です。
2023.10.8
「生きることも、死ぬことも」 フィリピの信徒への手紙 1:21〜30
「私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」
伝道者パウロの言葉です。パウロは「私は今、イエス様のおかげで生きている。死の向こうでもイエス様と共に生きるから、死ぬこともまた益となる」と考えていたのです。
しかし、彼はこうも言います。「(生きるか死ぬか)どちらを選ぶべきか私には分かりません。… 一方では、この世を去ってキリストと共にいたいと熱望しており、このほうがはるかに望ましい」
パウロは迫害や病気など多くの苦しみを経験してきました。彼は何度、「こんなに苦しむならもう天国に行きたい」と思ったことでしょう。
しかし、彼はこう言うのです。「肉にとどまるほうが(この世で生きているほうが)、あなたがたのために、もっと必要です。…あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう」
パウロはこの時、この手紙を受け取る教会の信徒たちの顔を思い浮かべ、「この人たちのために、私にはできることがまだある!この世で残された時間があるなら、だれかのために生きよう」と思ったのです。
私たちが今、この世に生かされているのは、他のだれかのためかもしれない…だれかのために何かできることがあるのかもしれません。いや、たとえ何もできなくても、あなたの存在がだれかにとっての喜びになるのではないでしょうか?どんな時も、あなたがこの世に生かされていることには意味があるのです。
どんな時も私たちは、イエス様の十字架の赦しの中で生きることができます。そして、この世を去っても、その向こうでイエス様と共に生きるのです。生きる時も、死ぬ時も、その後も、ずっとあなたはイエス様と一緒です。
このイエス様の恵みの中で、私たちは、自分一人のためではなく、だれかのために、今日、生きましょう。
2023.9.8
「イエス様の後に従う」 マタイによる福音書 16:21〜28
「君たちはどう生きるか?」今年の夏、そんなタイトルの映画が話題になりました。見る人によって解釈が違い、色々と賛否両論あるようですが、私はその映画をまだ見ていませんので、ここで何かそれについて話すことはできません。
しかしそのタイトルを聞いた時、正直ちょっと気になりました。「君たちはどう生きるか?」そう問われた時、私は何と答えるだろう?と。またその問いに対して「私はこう生きる」とハッキリ答えられる人がどれだけいるだろう?と。
「私はこう生きるんだ」そう思っていても、そうは生きられないかもしれません。想定外の事や、理不尽なことに出会い、自分でも思っても見なかったところで、生きなければならない事もあるでしょう。
私が思うのは、「私はどう生きるか」よりも、「私は誰と生きるか」それが大事なんだと思うのです。私は「イエス様と生きます」。
このような私にも赦しと愛を、そして命を与えるために御自分を捨て、私が受けるべき罪の罰と死を代わりに背負い、十字架にかかって死に、復活してくださった、今も生きておられるイエス様と共に。
そこにはもちろん同じように、思っても見なかったような事、理不尽な事にも出会うでしょう。しかし聖書を通して、主と共に生きるそのところに、確かな道があり、真理があり、命があると知り、そして信じています。
だからこそ、たとえそこで十字架を負うような事があっても、大変な苦労がやってきても、投げ出したくなるような事があっても、主が私と共に生きてくださっているから、私もその中で生きることができるんだと思うのです。共にその重荷を担い、支え、励まし、助け、そんな中でも変わらない愛と命を、主が与えてくださっているから、今日も私は生きることができます。
悪魔からでも、誰か他の人々からでも、また偶然からでもなく、いつも神様の手から、日毎に与えられる新しい命と、そして十字架を受けとり、今日も主に従い歩んでいきたい、そう願います。そしてきっと、そうして主と共に生きる所に、愛の実は結ばれていくのだと信じています。
2023.8.9
「どんな時も、あなたは一人じゃない」 ローマの信徒への手紙 8:26〜39
使徒パウロは宣教の旅の間、様々な危険な目に遭い、迫害や多くの問題に苦しみました。それでも、彼はこう言うのです。「だれが、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸(着る物がないほどの貧しさ)か。危険か。剣か。…私は確信しています。死も、命も、…現在のものも(今ある苦しみも)、未来のものも(未来にある苦しみも)、…どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです」
この 「引き離すことはできない」は、もとの言葉では未来形で「この先も絶対に引き離すことができない」という意味です。愛する御子イエス様を犠牲にしてまでも、私たちを救いたいと願ってくださった神様が、今も、この先も、ずっとあなたを愛し、あなたと共にいる…それを妨げることができるものは何もないのです。
どんな苦しみの中でも、神の愛、キリストの愛が私たちを掴んでいます。どんな時も、あなたは一人ではないのです。
苦しみだけでなく、あなた自身の過ちや至らなさも、あなたのどんな罪も、神様があなたを愛するのを止めることはできません。
聖書の神様は「全能の神」と呼ばれます。しかし、その全能の神にひとつだけ不可能なことがあります。それは、あなたを愛するのをやめることです。神様が唯一できないことは、あなたを見捨てることです。たとえあなたが自分を愛せない時も、神様があなたを愛しておられます。
2023.7.9
「受け入れる人の報い」 マタイによる福音書10:40〜42
イエス様により頼み、派遣されていく弟子たちの存在がどれほど貴重なものか、御言葉は語ります。イエス様を信じて生きる弟子たちを誰かが受け入れる事は、イエス様を受け入れる事となり、父なる神様をも受け入れる事だというのです。それは主の弟子であるという理由で、誰かがその小さな者に冷たい水一杯飲ませてくれるというだけで、その誰かには必ず神様からの報いがあると保証されるほどです。
確かに私たちも、歴代の先生方、クリスチャンの友人や家族を通して御言葉を聴き、主に出会い恵みをいただいてきました。神様から御言葉を預かり、語り伝え、証ししてくださるその人たちを私達も受け入れたので、彼らが神様から与えられている同じ報いを、私たちもいただいたのです。彼らがその人生をかけて届けてくれた福音、その恵みの大きさから比べれば、私たちが彼らにして差し上げたことは、一杯の水を飲ませたくらいの事だったかもしれません。それはいつしたのか?覚えてもいないくらい。それなのに、計り知れない報いを私たちも神様から受けています。実にキリストの福音、その恵みは、主が遣わされる「主の弟子」を通して人々へ届けられます。
しかしそうであるなら、恵みをいただいた私たちをも通して御言葉は届けられ、神様の報いは誰かへ届けられるという事です。さぁ、どうでしょう?私が?水一杯をいただいた事?そんな事ある? もしかしたら、あなたにとっても覚えていないほどの、たった一杯の水かもしれません。しかしその誰かにとっては、あなたを通してイエス様と出会い、神様との出会いがあるのです。
日々「キリストの命に新しく生きる」。それは私たちにとっての恵みだけではなく、私たちを通して、主の恵みが誰かに届けられるという事でもあります。そしてそれこそが、私たちの大切な使命であり責任です。それはまず私たち自身が、キリストによって、キリストに繋がる信仰者たちを通して、神様からの報いをいただき続ける人生です。しかし同時に、キリストにつながり主により頼む私たちもまた、誰かにその報いを届ける人生です。主の命をいただいて生きる者とされた私たちは、今日も主にある報いを届ける為に遣わされています。
2023.6.8
「聖霊からの贈り物」 コリントの信徒への手紙 一 12:3〜4
聖書は「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」と告げています(Ⅰコリント 12:3)。
「イエスは主である」とは「私の罪を背負って十字架で死なれたイエス様こそ、私の救い主である」ということです。そのようにイエス様を信じることは、自分の力でできることではありません。聖霊が導いてくだるから、私たちはイエス様を信じることができるのです。
今、あなたがイエス様を信じておられるなら、それは、聖霊があなたを導いてくださったからです。
「私は、自分の理性や能力によっては、私の主イエス・キリストを信じることはできない。けれども、聖霊が、福音を通して私を招き…まことの信仰のうちにきよめ、支えてくださいました」(マルティン・ルター、「小教理問答」より)
聖霊なる神様は、礼拝で語られる福音(イエス様の救いの知らせ)を通して私たちに働きかけてくださっているのです…イエス様を「私の主、私の救い主」と信じることができるように。
「賜物(贈り物という意味)にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊(聖霊)です」(Ⅰコリント 12:4)
どんな力もすべて聖霊からの贈り物です。そして、すべての賜物の先に立って信仰がある…。イエス様を信じる信仰こそ、一番、大事な賜物、聖霊からの贈り物です。「何ができるか」ということ(能力)よりも、「だれを信じるか、だれに信頼しているか」ということのほうが大事です。
6節ではこう語られています。「働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です」
私たちがだれかのためにする、いろいろな働き(大きな働きも、小さな働きも、人目につかない隠れた働きも、全部!)を通して、神様がすべてのことをなさっているのです。
私たちのつたない働きも用いてくださる神様を信じて、また、私たちに信仰を与えてくださる聖霊の導きを祈り求めて、歩み続けましょう。
2023.5.16
「心の中で主を崇めて」 ヨハネによる福音書14:15〜21
些細な事で心は揺れ動き、日常のちょっとした変化にさえ戸惑い、見聞きするニュースに恐れや不安を感じ、「一人じゃ何もできない」「今の状況ではまだ・・・」そんな風に、私たちの信仰生活もどこか内側にこもってしまいそうになる事があります。
そんな私たちに、今日の福音書でイエスさまは言われます。「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがと一緒にいるようにしてくださる」と。この方は真理の霊であり、御子を示し、神様の愛とその真理を教えてくださり、イエス様による救いの希望に与からせ、私たちの心を強めていてくださる方です。今日も心の中で主を崇める事ができるのは、この御霊によってです。そしてこの真理の霊は、与えられた希望を、ただ私たちの内にだけ留まらせるのではなく、外に向けて現させる方でもあります。
信仰生活や教会活動だけでなく社会の様々な変化の中で、戸惑いを覚える事も多くありますが、どのような状況にあっても、聖書が語る御言葉は変わらず、私たちの信仰生活の土台も、また留まるべき場所も、何も変わりません。与えられたその日の中で、今日も感謝の内にキリストの愛に留まり、目の前の一つ一つに心を留めて、愛に生きる事。それが愛の内にいつも備えている事だと思います。
世界中があのパンデミックで不安と恐れに翻弄されていた只中、当時のノルウェーの首相が、特に子どもたちに向けて、このようなスピーチをされた事がありました。「ウィルスはとても感染しやすいので、私たちは今お互いに触れることはできません。でも、お互いを思いやることはできます。」と。
今出来ないこと、昔は出来たけれど、これからは出来ない事などは、これからも出てくるでしょう。けれども、それでも「できる事」があります。相手を思いやる事。それは愛する事です。それは今もこれからも、変わらずできる事です。なぜなら、神様の変わらない愛が、今日も変わらず私たちの内に注がれ、主が共にいてくださるからです。
2023.4.9
「私たちの行く手に、いつもあの方がいる」 マタイによる福音書 27:57〜28:10
イースターおめでとうございます!
イエス様は十字架で死なれた後、3日目に復活されました。そのことを最初に知らされたのは、イエス様に従っていた女性たちでした。彼女たちは「恐れながらも大いに喜び…弟子たちに知らせるために走って行った」(マタイ28:8)。
彼女たちは、恐れと喜び、両方を抱えながら進んで行きました。そんな彼女たちの行く手に、イエス様が立っていたのです!(28:9)
イエス様は私たちの行く手にもおられます。喜びと恐れの両方を抱えながら生きるしかない私たちですが、私たちが進む先には必ずイエス様がおられる…。
癒されない悲しみを抱えながら進んで行かなければならない時も、イエス様は共におられます。その時、きっとイエス様はこう言われるでしょう。「あなたの悲しみが私にも分かる。私も愛してきた人々に見捨てられた日は死ぬほど悲しかったから。それでも、悲しみの中でも私と一緒に生きようよ」と。
過ちを犯して後悔の涙を流す時、自分を恥じる時、消え去りたい時、そこにもイエス様はおられます。そして私たちに言われるでしょう。「あなたの罪は私が背負ったから大丈夫だ。悔い改めて、また私についてきなさい」と。
そして、この世での人生が終わる時も、あなたの行く手にはイエス様が立っていて、天国にあなたを迎えてくださるのです。
あなたの行く道に「行き止まり」はないのです。あなたの行く手には、いつもあの方がいてくださるのですから…生きておられる主イエス様が、あなたを愛しておられるイエス様が。
2023.3.15
「溢れ流れる生きた水」 ヨハネによる福音書 4:1〜42
「水を飲ませてください」。そうサマリアの女性に話しかけられたイエス様は、その対話を通して彼女の心の中にある本当の渇きへと目を向けさせられました。おそらくそれは彼女にとって触れられたくない、隠していた部分だったでしょう。しかし彼女はありのままを答えます。それは自分の渇きを自覚させられるものでした。
しかしそんなありのまま告白する彼女を、イエス様は軽蔑することなく、また裁かれません。イエス様は全部知っておられたのに、そのままの彼女を受け止めてくださいました。
神様の御言葉が心に迫る時、私たちも隠していた自分の弱さ、ありのままの姿があらわにされ、苦しく痛みを伴う事があります。しかしイエス様だけは、そのままの私たちをも受け入れ、その罪を赦し、そして新しい命を与え、生きた水で私達の魂を満たす事がおできになります。なぜならその渇ききった私たちの心に、ご自身の命の水、生きた水を与える為、イエス様が私たちの渇きを受け入れ、私に代わって十字架にかかって下さったからです。
イエス様は、ご自身のコンコンと湧き出る命の水を、あなたに与える事を決して止めてしまわれません。むしろ自ら近づき、ご自身から話しかけられ、またその対話を通して、私たちが真に生きた水を求める信仰をも与えてくださいます。そして、そんな心から求める私たちが、渇いたままガッカリして帰ることがないように、溢れるほどに注いでくださいます。
人に対して、また神様に対して、隠していたい自分がいるかもしれません。深い心の渇きを覚える時があるかもしれません。そんなあなたに神様は、今日も御言葉をもって語っていてくださいます。「何も隠さなくていい、全部知っている。そのあなたの渇いた心に、真の潤いを与え、満たすのは私だ」と、イエス様にある十字架の恵みを教えていてくださいます。
私たちはその主を信じて、「その水をください」と渇いた心を、そのまま差し出すだけです。尽きることの無いイエス様にある恵みを、その愛を、いつもいただきましょう。
2023.2.14
「ひとりで抱えなくていい」 テサロニケの信徒への手紙一 5:16〜24
「ヨハネは…イエスが来られるのを見て言った。『見よ、世(世界中のすべての人)の罪を取り除く、神の小羊だ』」(ヨハネによる福音書 1章29節より)
この「取り除く」は、聖書が書かれた言葉では「背負う」という意味もあります。イエス様は私たちの罪を取り除くだけではなく、それをご自分の身に引き受けて背負ってくださり、十字架でご自分をささげてくださいました。あなたに神様からの赦しを与えるためです。
あなたは罪悪感や後悔を一人で抱えなくていいのです。あなたの罪を背負うためにイエス様が来てくださったのですから。イエス様が私たちに限りのない赦しと新しい命を与えてくださったのですから。
もしイエス様がおられなければ、私たちは自分の罪に押し潰されて「私なんてダメだ」と絶望するか、あるいは、自分の罪に目を背けて「仕方なかったんだ」と自己正当化し続けるか、どちらかです。イエス様に目を向けるならそのどちらにも陥りません。
「あのイエス様の十字架によって私も赦された。私も神様に受け止めて頂いている」と信じて、「もう一度、正しい道を歩もう」と思えるのです。自分の足りなさは認めつつ、それでも、そんな自分が神様に赦され、愛されているのだから、自分も他の人々を愛することを求めていくのです。
2023.1.7
「本当に良いものを大事に」 テサロニケの信徒への手紙一 5:16〜24
『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。』(テサロニケの信徒への手紙一 5:16〜18)
この御言葉に多くの方が慰められ、勇気を与えられ、希望を与えられた事があるのではないでしょうか。
しかしそうは言っても、私たちの日々を顧みる時、そうしたい気持ち、またそのように出来たらいいなと思ってはいても、出来ない時も・・・あります。現実は、「時々喜び。時々祈り。時々感謝する」といった所でしょうか?この「いつも、絶えず、どんな事にも」という言葉に、ちょっと尻込みしてしまいそうです。なぜなら私たちの現実は、こんな状況に喜ぶ事なんて出来ないと思う時、全く祈る事も出来ない時、この状況で感謝する事なんて出来ない時、「どうして」と答えの出ない痛みに、どうしようもなくなる時もあるからです。
しかし、この御言葉には続きがあります。それは、『これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです』(18節)。私達の感情や努力、また状況の変化によって喜び、祈り、感謝するのではありません。「キリスト・イエスにおいて」です。
それは私達の心の中の様々な思いが渦巻く中で、確かな光を放つ本当に大切な物を思い出させてくれる言葉です。なぜなら今ある苦しみ、痛みや不安、大きな重荷の中、目の前の現実の只中に、主は共におられるからです。暗闇という私達の現実の中で光は輝いています(ヨハネ1:15)。この暗闇の中に輝いている光こそ、私達に与えられた本当に良いものです。それは、イエス様の十字架と復活によって成し遂げられ、届けられた良い知らせであり、共におられる神、主イエス様ご自身です。そしてこのイエス様を通して顕わされた主なる神さまの愛に他なりません。
いろんな思いで渦巻く私たちの心の中にある、本当に良いものは1つです。それさえあれば本当は十分なのです。それは、あなたと共におられるイエス・キリスト、神様の愛です。イエス様が共にいて下さる。だから私たちはどのような時も、このキリスト・イエスにあって「いつも喜び、絶えず祈り、どんな事にも感謝する」事ができるのです。